色んなことがディスタンスになるこの時代。

めっきり人と会わなくなりました。
という文脈の場合、「人」は友達・知人を指していますね。

実は「他人」には結構、望むとも望まざるとも会っていますよね。
街で、電車で、エトセトラエトセトラ
だから、距離を取る・ディスタンスは、対友人知人等親しい人に向けられてるんです。

そうしたときに感じるむなしさ、孤独というのは、
つまりは周囲が自分を作っていることを実感する部分もあると思うんです。

結局自分は、友人・知人に会うことで、自分の訴求力、必要性を再認識したいだけなのかと。

再認識する機会が減るから、虚しくなる。
結局、相手を自分の鏡にしている、本当にどうしようもない人間なんですね。私は。

ところで、
私の父は物書きなんです。
彼の唯一の自慢は、
「自費出版をしたことない(=企画出版しかしていない)」だそうです。

これが事実だとするならば、2つの感想があって、
「単純にすごい」と、
「そんなつまんない本も出版されるものなのか」という。

そしておそらくではありますが、
父の中でその本が売れるかどうかは然したる問題ではないのでしょう。
(というより、あの本で売れることを目指しているのだとすれば、それはとんでもないことだ!)

自分自身が、その本なのだと思います。
言いたいこと、伝えたいこと、分かってほしいことも多少はあるのだとは思うのですが、
それらはすべて些末な自己主張であって、
肝心な部分は「自己」の主張なのではないかと。
自分の存在を叫んでいる、その証左に、本という形として残したい。

その他凡夫な私は何かを出版することは能わないでしょうから、
まあ能うとしても出版するものもないですから、
その他大勢の一般人として唯一あるのが知人友人との対話、
知人友人のを通じた自己の再認識でしょうか。

憧れの人と話せば、自分の欠点に嫌気がさす。
自分より劣った人と話せば、自分の長所が誇らしく思える。
怖い上司と話せば、自分の立ち回りが素晴らしく、
優しい後輩と話せば、自分の知識が光って見える。

人の振り見て我が振り直せ、
人は自分を映す鏡、

言葉は様々ですが、コロナ禍で一番見えなくなっているのは、
もしかしたら自分自身なのかも知れません。