原三溪(富太郎)は、岐阜の豪農であった庄屋の家に生まれ、早くから絵画や漢詩を学んだといいます。
やがて大隈重信に政治や法律を学び、東京跡見学校の助教師となります。そこで教え子の「屋寿(やす)」と恋に落ちたことで、富太郎の人生は一変。
屋寿は横浜一の生糸商となった原商店「亀屋」の創業者の善三郎の孫娘でした。
善三郎は開港直後から横浜の繁栄を予測し、明治維新の際に三溪園一帯の土地を購入しており、後に衆議院・貴族院議員にまで上り詰めました。
屋寿と結婚した富太郎は原家の婿養子、つまりは後継者となり、原商店を会社に改組して近代的な事業経営を次々に展開していきます。
横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の初代頭取に就任し、今や世界遺産となった富岡製糸場を譲り受けるなど製糸業にも進出。
芸術家のパトロンとして、書画骨董の購入をはじめ、岡倉天心との出会いにより下村観山など若手画家や歌人などを手広く支援しました。
また“驚異の目利き”と称された三溪氏が生涯に購入した美術品は5000点を超え、一連の品々は没後に分散し、日本各地の美術館や博物館・個人などに受け継がれています。
三溪園の造園や古建築の収集と移築を進め、1906年には現在の外苑エリアを“遊覧御随意”として開園。いわば自宅の庭を市民に無料で開放したということですね。
そしてお花見や紅葉狩りに訪れる人々を喜んで歓迎したといわれます。
ところが三溪園内苑が完成した直後の1923年、関東大震災が日本を襲い、三溪園そして事業に大きな損害を受けました。
それ以降は芸術家たちへの支援や古建築収集を一切止め、横浜市復興会長として横浜市の復古に全力を注ぐようになります。
夫婦で三溪園内に震災孤児のための孤児院を開設、また生糸危機に直面した蚕糸業や銀行の救済などに奔走。
この頃には、地名の“本牧三之谷”から「三溪」と名乗るようになっていました。
三溪氏は70歳で没しますが、没後の大戦で三溪園は大きな被害を受け、横浜市民の手で復旧されることになります。
現在では季節ごとに催事や文化財古建築公開があり、施設を借りて結婚式や茶会もできるようになっています。
原はどこまでも横浜と
生死をともにしなければならないのです
と家族に語っていた三溪氏。
『横浜貿易新報』(明治43年)の寄稿文に、三溪氏は次のように記しています。
三溪の土地は、勿論余の所用たるに相違なきも
其明媚(そのめいび)なる自然の風景は
別に造物主の領域に属し
余の私有には非ざる也
※私の土地は自分のものであることに違いないが
その明媚な自然の風景は
もともとそれをこしらえた
別の造物主に属するもので
わたしの私有物ではないのだ
原三溪氏がこの時代に存在しなかったら、今の横浜そして日本はもっと違ったものになっていたかもしれません☆
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