齢を取るというのは長い階段をゆっくり下りるようなものだ。
しかし順調なくだりではない。階段が不ぞろいだからだ。
ときに深く落ち込んでいたり浅かったりで、コケる。
けれどそれだって楽しくないこともない。
という話。
(写真:フォトAC)
【不揃いの階段をゆっくりと下りる】
いつも申し上げている通り、子どもの成長はゆっくりと伸びる右上がりのグラフのようなものではなく、階段です。もちろん昇る一方でめったに下がることはないのですが、一段一段の高さがまばらで、踏板の幅もまちまちです。時には踊り場のように広く、何歩も歩かないと次の段に着かないこともあります。
このことは養育者や教育者に、「子どもが踏板を歩いているうち(停滞しているうちは)は、刺激を与えながら気長に待て」ということを教えます。機が熟さないと伸びないのです。熟せば、突然、ぴょんと伸びます。
高齢者が齢をとるというのはこれと逆で、ある程度の年齢になるとよほどきちんと対処しない限り、階段を上るということはなくなります。刺激を与え続け努力をしても、できるのはせいぜい踏板部分を長く伸ばすことだけ。ふと気づくと成長のマイナス階段を何段も下りていたりします。大きく下りることも、少しだけ下りることもあります。
ある日、手の甲の皮膚がすっかり張りを失って、ゴワゴワした感じになっていることに気づきます。鏡に映った自身の顔がなんだかいつも眠たそうに見えるのは、瞼の筋肉が衰えて垂れ下がって来たからでしょう。そのうえ眉にも白いものが混じり、実は眉の白髪は抜け忘れだそうですが、それがいつまでも長くとどまっています。
眉は抜け忘れるのに髪は忘れず抜ける。そして戻らない。若いころは伸ばしっぱなしも格好よかったのに、いま同じことをすれば落ち武者状態で、床屋に行く回数はむしろ増える。少ない髪に昔以上の金を使うのは実にコスパが悪い、と不満は募るのですが、まったく行かずに済む日も遠くなさそうなので、努めて行くようにしています。
畑仕事は1年サイクルのルーティーンなので、鍬を握らない日が半年も続くときもあります。で、春に振り回したら10分足らずでへとへとになってしまい、「ああ、階段、大きく下りたな」と自覚させられる、そんなことの繰り返しです。
ブログではかつて書いたことを、新鮮な気持ちでまた書いてしまったりする――。
【良いこともたくさんある】
一方、良いこともないわけではありません。
この齢まで生きてくると、世の中のたいていのことに怯えなくて済むようになります。
生活が固定化して、この先も今までとまったく同じような生活を送っていきますから、たいていの問題にはうまく対処できそうだと、タカをくくっていられるのです。たぶん間違いないでしょう。
蓄えはわずかですが、もともとが異常なくらいに質素でしたから、老後に不安はありません。病気や事故は防ぎきれませんが、その時になったら考えましょう。その余裕が、若いころにはなかったものです。
とりあえずおいしく食べられるものが増えています。現役時代、昼食は5分以内、朝夕も10分以上かけて食べることがなかったので、味も分からなかったのです。それがいまは時間をたっぷりかけるので、微妙な味の違いに気づきます。
嫌いではなかったものの、一度も自分から食べたいと思ったことのなかった「うどん」が旨くて旨くて、ときどき妻に頼んでつくってもらったりしています。うどんのために「何でも嫌がらずに食べるから、“今日は何を食べたい”と聞かないで」という結婚以来のルールを自ら破りました。
時間はすべて自分のものです。
ただし、「ひとは(特に私は)自らに課すものがないとダメになってしまう」と思い込んでいますので、一日をゆるやかなルーティーンワークの積み重ねにしています。午前中は家事と畑仕事。午後は読書とテレビとインターネット、そして文章を書いていると終わります。「毎日忙しい」というとまだ勤め人の弟は笑いますが、実際、けっこう忙しいのです。しかし締め切りも責任もないので、気楽には違いありません
【忘れるもまた“よし”】
若いころからものを調べるということが好きで、ネットのない時代は付箋の山ほどついた本を何冊も侍らせて、結局何が何だか分からなくなってしまうということがよくありました。今はすべてコンピュータの中でできるから便利です。
ネット上で拾った記事も写真も自分の書いた文章も、すべて整理して「2021.11.19 ◯◯◯◯◯」といったファイル名をつけて保存しているので、整理が行き届いています。
ファイルの分類というは日付が一番いい。「これこれこういう時期に、あれこれああいう文章を保存したはずだ」とさえ覚えておけばいつでも引き出せます。つまり頭の中には索引だけを置いておくだけで済むのです。
ところが齢を食ったら「頭の中の索引」に穴が開き始めました(我が辞書にないのは「不可能」の文字だけではない)。自分の手元にあるものが把握しきれなくなったのです。
しかしそれもまた“よし”とするしかありません。誰にも迷惑をかけるわけではありませんから。
こうして、やがてすべて忘却の彼方に霞んでいくのでしょう。ひとに迷惑をかけていることも理解できなくなったら、それもまた“よし”です。