カイト・カフェ

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「それぞれの国のそれぞれの同調圧力」~日本人は同調圧力に負けてマスクをし続けるのか①

 久々に都会に出たが、人出は多く、そのほとんどがマスクをしている。
 彼らは同調圧力に屈した人々なのだろうか?
 少なくとも私はそうではない。自らマスクを選び取ったのだ。
 同調圧力なんてどこの国にもあり、日本が特別なわけでもないはずだ。
という話。

【東京に行ってきました】

 ちょっとした用事があって久しぶりに東京に行ってきました。そのついでに美術館に行ったり東京駅近くで知人と食事をしたりと、私としては極めて珍しい2日間を過ごしてきました。
 コロナ感染第8波上昇中というのに何をしているのだと自分自身思わないわけではありませんが、一方で感染予防が叫ばれながら他方でマスクを外して旅に出ようみたいな政府のキャンペーンもある中で、何をどうしたらいのかよく分からなくなっているのです。

 とりあえずオミクロン対応のワクチンは接種してあるし、東京の単位人口当たりの感染者数は我が田舎県の半分以下しかないところから、「ウイルス感染しないように」ではなく、東京の人より私のかかっている可能性の方が高いので「感染させないように」を気にしながら、2日間を楽しんできました。しかしそれにしても街々の人出は多かった。しかも大半の人は屋外でもマスクをつけたままなのです。

【私は自らの意志でマスクを手放さない】

 私はメガネをかけている上に鼻孔に形態上の問題を抱えていて、そのためマスクなんて大嫌いです。幸い年金生活者なので家族以外の人と会う機会はほとんどなく、畑仕事が生活の半分なのでカラスやタヌキからうつされる心配さえしなければ、一日中マスクなしでいられる生活を2年半も送ってきました。
 つまりマスクをしないことが常態なのですが、そんな私でも、さすがに買い物で店に入るときや、今回東京で過ごした二日間も人通りの多い屋外にいる時間は、ずっとマスクをつけたままでした。政府からは人と十分な距離が保てる場合はしなくてもよい、と言われているにもかかわらずです。
 それはなぜか?

 ここで同調圧力の話を持ち出すのは正しくはありません。なぜなら私は自分から進んでマスクを受け入れたのであって、何ぴとの圧力も感じてなかったからです。自主的な行動です。これを同調行動というのだそうです。ファッションやコンサート会場での立ち振る舞いなどが同じ領域に入ります。
 同調圧力は逆で、行動の主体が他にあります。「少数意見を持つ人が多数意見に合わせるよう暗黙のうちに強制する」のは他者であって自分ではありません。ちなみに「法律を守れ」「マナーを守れ」といった内容は多数決の問題ではありませんから、これも同調圧力と呼ぶのはいかがなものかと思います。

 同調圧力はコロナ禍の初期、マスク着用や行動自粛を迫る社会の雰囲気として突然もち出されてきた言葉で、日本は特にそれが強い国だと言われています。しかしどうでしょう?
 コロナ禍初期は多くの人が恐怖に駆られていた特殊な時期で、江戸時代の村ならまだしも、近現代において日本が特に「少数意見を持つ人が多数意見に合わせるよう暗黙のうちに強制する」傾向が強かったとは、私にはとうてい思えないのです。
 同調行動をとることが好きな国民で順法意識も高いですからどうしても同質性は高くなってしまいますが、同調圧力なんてどこの国に行ったってあることではないのでしょうか?

【それぞれの国のそれぞれの同調圧力

 私が最初にそれに気がついたのは、むかし勤めていた学校でアメリカ人のALT(外国語指導助手)と話した時です。彼女はこんなふうに言うのです。
「私はシャイでナイーヴな性格なので、日本が合っていて、日本がとても住み心地いい」
 シャイなアメリカ人がいるというのは驚きでしたが、考えてみればあたり前のことで、どんな国にもいろいろなタイプの人間はいます。シャイな彼女は生き馬の目を抜くような母国でおそらくたいへんな苦労をしてきたのでしょう。
アメリカでは陽気でないと生きていけない。それが苦しい」

 また最近聞いた話では、アメリカ人は「ひとり飯」ができないのだそうです。ひとりで食事をしていたりすると必ず誰かが走ってきて、
「まあ、どしたの? 友だちがいないの? 一緒に食べてあげようか」
といったふうになってしまうらしいのです。そう思って見なおすと、確かにアメリカ映画の食事風景は異性どうしにしろ同性どうしにしろ、必ず誰かと食べているように見受けられます。こういうことも同調圧力というのではないでしょうか?

 フランス人は自由・平等・博愛を起点と国づくりをしてきましたから、いまでも自由を最大の価値として容易に政治家の言うことをききません。そんなところからシャルル・ドゴールは「人間を知れば知るほど、私は犬が好きになる」と言い、昨年6月、ロックダウン中のパリ、エッフェル塔下で、バカ騒ぎをした若者たちにマクロンは激怒せざるを得なかったのです。しかし当時のフランス人だって未知のウイルスであるコロナが怖くなかったはずがありません。中には意に反してバカ騒ぎやホームパーティに参加せざるを得なかった人もいるはずです。かれらは自由でなくてはいけないという同調圧力に縛られています。

 私の友人のひとりは、若いころ留学で行ったイタリアでホームスティ先の男の子に、「ナンパのしかたを教えてほしい」と言われて面食らい、自らの生き方を反省したと言います。女性に声もかけられないイタリア人というのも、生きずらそうです。しかしその子は「この国では男の子がまず声をかけなくてはいけない」という圧力のもとにいます。

(この稿、続く)