カイト・カフェ

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「小川市郎も坂本金八も、いわゆる 『でもしか』『サラリーマン』教師」~40年前の仲間と会う②

 「不適切にもほどがある!」の小川市郎も坂本金八も、
 ともに「デモシカ先生」「サラリーマン教師」世代なのに、
 次世代の私たちの方がやる気のない教師のように言われ、
 今は、過熱・体罰・暴言教師の元凶だと言われる。
 という話。
(写真:フォトAC)

体罰と暴言とセクハラの時代】

 年寄りが40年ぶりに集まれば当然、昔話に花が咲きます。
 しかし思い出を語っても、「昔はよかった」とか「昔の方が楽しかった」というふうにならないのは、当時の教育文化が誤ったものだったという認識が、いまや確かなものとして広がってきたからなのかもしれません。体罰にも暴言もセクハラにも心当たりがあります。部活や生徒指導に熱が入りすぎて、言ってはいけないことを言ったり怒鳴ったり、時には殴ったりということは、日常茶飯事とは言いませんが、確かにありました。

 私が教職についた1983年にはそうした風潮がかなりあって、1985年にはほとんどなくなっていたという時代の狭間です。
 集まった4人の中の最年少は長さ50センチほどのしゃもじ型の「根性棒」を教室で振り回しながら指導していましたが、その「棒」は彼が転出する際、私のクラスに引き継がれました。
「このしゃもじで指導された生徒は、誰一人受験に失敗しなかった」
という伝説をつけての移譲です。
 もちろんそれで生徒を叩いたりはしませんが、喝を入れたいときに机などをぶっ叩き、縦に半分に割れたしゃもじセロハンテープでぐるぐる巻きに補修され、その後8年間も私の手元にありました。

 二番目に若い先生は中2の担任だった3学期末、終業式に通知票が仕上がらず、当日の生徒のほんの些細な過ちを責めて、
「オマエたちに渡す通知票なんかない! 新年度準備の登校日に、全員揃ったら渡す!」
とか言ってその後一週間かけて完成し、無事(?)渡すことができました。

 もうひとりの武勇伝は、授業中に自分が放屁したのを目の前にいた生徒のせいにして乗り切ったというものです。
「てめえ! 授業中に屁なんかするんじゃない!」
と怒鳴ったら、
「スミマセン」
と謝ったので勝ったと思ったと言っていました。

 私は私で、3年生で極めつきに優秀で美人の女生徒が生意気を言った際に、
「今度そんなこと言ったらキスするぞ」
と脅したことがあります。その子は、
「先生、いいよ。してくれて」
と言って笑いましたが、私はそれを「絶対にキスなどしないと見越しての大人の会話」だと思って、その機転に感心していました。二重三重に過ちを犯したということです。

 先日の飲み会ではいずれも、
「今やったらただじゃ済まないよね」
と言って終わりましたが、愉快に笑って話すという雰囲気でもありませんでした。

【小川市郎も坂本金八も、いわゆる「でもしか」「サラリーマン」教師世代】

 次の世代によって丸ごと「失格」の烙印を押されるという経験は私たちだけでありません。私の親世代がいわゆる「戦前戦中派」で、青春時代に軍国主義を叩きこまれたのにも関わらず、戦後は全面否定され、180度違った生き方を強いられました。だから自信のない人たちで、親子喧嘩になっても、必ず向こうが折れる屈折点みたいなものが見えて、だから私は追い詰めないように気を遣いました。
 しかし教育者としては「教え子を戦場に送った教師」「戦場に送られた、あるいは送らされそうになった教師」たちですから、「二度と教え子を戦場に送らない」をスローガンに、かなり強硬に、思いつめたような教育を行った人々でもあります。
 
 ところが日本の戦後復興は驚くほど速く、終戦からわずか11年後(1956年)の経済白書には、
「もはや戦後ではない」
という文字が踊り、翌1957年には東京タワーが着工して、映画「Alweys三丁目の夕日」に描かれたような高度経済成長期が始まります。

 いま評判のテレビドラマ「不適切にもほどがある!」の主人公の小川市郎は1935年生まれの設定ですから、この年に22歳。教員採用試験に受かって翌年、東京タワーの営業とともに教員を始めた人です。
 1950年生まれの坂本金八はおそらく1972年の教員採用試験に合格し、高度経済成長の息の根を止めたオイルショックの、半年前に教員生活を始めています。
 つまり小川市郎も坂本金八も、景気がよくて大学生が片っぱし民間企業に就職する中、どこにも行くところがなく、たまたま教員枠が広がったために「教師にでもなるか」「教師しかない」と大した意欲もないまま教師になった、無気力で不活発な教師たち――いわゆる「でもしか」教師の世代なのです。「サラリーマン教師」とも言います。

【市郎や金八の指導力とは何だったのだろう】

 先日40年ぶりの飲み会をした私たちは、その次の世代にあたります。
 1973年のオイルショックで経済が急速冷凍のように冷え、企業倒産が続くと公務員人気は一気に高まり、教員採用試験に倍率もうなぎのぼりに上がりました。4人の中で最初に教員になったのは、知り合ったときすでに既婚者だったあの人ですが、彼が採用試験に受かったのが1977年。次に合格したのが1982年受験の二人。最後が不景気と公務員人気が落ち着き始めた1983年の合格者の私です。それからしばらくするとバブル景気が始まり(1986年~)、教師になるのがバカらしい時代になります。
 自分で言うのもなんですが、「でもしか」「サラリーマン」教師世代とバブル教師世代の狭間で、私たちはかなり難しい試験を通過してきたのです。
 
 しかし実際に小川市郎や坂本金八に叱咤され、世間からも熱意に欠ける「でもしか」「サラリーマン教師」と見なされたのは私たちでしたし、「昔の先生は威厳があった」「指導力がった」と言われるのは小川・坂本といった先生たちのことです。
 私たちは「三年B組金八先生」のDVDや「不適切にもほどがある!」の放送を見ながら、今ようやく、その「威厳や」「指導力」の正体を知ることができます。
 彼らは実はたいした人たちではありませんでした。そんな「大したことのない人たち」が、それでも「威厳」を匂わせ「指導力」らしきものを発揮できたことには、それなりの理由があったのです。

老害――すでに退職した人々が残すもの】

 いま、私は自分たちが難しい試験を通過したひとかどの教師であるかのような言い方をしました。もちろん嘘ではありません。しかしここに平成の猛者たちを登場させると、私たちなど鴻毛の重みさえもなく翳んでしまいます。
 西暦2000年(平成12年)の教員採用試験、倍率13.3倍を頂点に、前後10年間に教職に就いた人たちは現在40歳から50歳くらい(さらに前後5年くらいずつ広げるも可)。この層の先生方の優秀さは空前であり、おそらく絶後でもあります。
 悪く言えばこの優秀な人たちが、まるで巨大な真空掃除機のように困難な仕事をいくらでも吸収できたところに、今日の学校の大変さが生じた理由があるように思うのです。
 しかしそれより下の世代からすると、昭和をそのまま引き継いでしまった私たちの世代にこそ、問題があるように見えるらしいのです。