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「老い先短い者が壮年の子どもたちに伝える人生への想い」~知り合いの若者のお母様が、私くらいの年で亡くなって

 娘婿の義弟の、その母親が、私ほどの年で急逝した。
 その彼の嘆きはいかばかりか――。
 しかし若者よ、人は齢を取ると枯れ始め、
 人に対しても人生に対しても、次第に恬淡とするようになるのだ。
 という話。(写真:フォトAC)

【ある若者の母親の死】

 娘婿のエージュの妹の配偶者のお母様――といっても訳が分からなくなると思いますが、要する少し遠い縁戚で、私が大切に思っている若者(と言っても30代)のお母様が亡くなりました。急性の心臓病で、何の前触れもなくあっけなく亡くなられたようです。

 私は彼の結婚式で一度お会いしただけですが、背の高い、重々しくも古風な女性とお見受けしました。子どもの年齢を考えると私と同年代で、訃報を聞いた娘のシーナが慌てて電話をかけてきたのも、“自分の親世代が死ぬ”という現実に直面して、うろたえたためなのかも知れません。話の流れで、
「今まで支えてくれてありがとう」
みたいな話をされて、こちらもうろたえました。

 私自身は97歳の母の最期の場所をどう整えてやろうかと思案しているところで、とてもではありませんが自分の死出の準備など考えている余裕はないのです。シーナも同じで、親が死ぬことなどまったく考えていなかったので同じ親世代の死はまったくの不意打ちだったのでしょう。もちろんシーナにとって義理の弟にあたる彼にも、母親の死は不意打ちだったに違いありません。どんな気持ちで会いに行ったのか――それを考えたら何ともやり切れなくなって、どうしてもひとこと声をかけたくなり、少し長い手紙を書きました。

 しかし書き終えて一晩冷やしたら、彼がどんな親子関係を持っていたのか、現在の悲しみがどの程度のものなのか、そういったものが一切わからないまま余計なことを言うべきではないと思い直して、投函するのはやめました。やめましたが、もう老い先短い親たちが、壮年の子どもたちにどういう思いを持っているのか、伝えておいてもよかったかな、とも思っています。ですからここに記録として残しておきます。

【老い先短い者が壮年の子どもたちに伝える人生への想い】

 
S.S様 
 お母様の訃報に接し、心よりお悔やみ申しあげます。
 お母様とは結婚式の際に一度お会いしただけで、背の高い、気丈夫な感じの方だったと記憶する他、おそらく言葉は交わしたはずなのに、何をお話ししたのか、どんな様子だったのかも覚えてはいません。けれどきっと優れた生き方をして来た立派な方だったことは、今のSくんを見ると容易に想像がつきます。厳しく、丁寧で、優しく接する方だったのでしょうね。しかしその亡くなり方は、潔すぎて残された者に試練を残しました。

 私も高齢なのでしばしば思うのですが、生まれてこの方、受験も就職も結婚も、それらすべては自分の能力に応じて、自分の意志で、自分の都合のいいように決めて来たのに、死だけはあまりにも思い通りになりません。
 私の母も今年98歳で、一月の末に足を骨折してから二か月間余りも入院し、今は私の手を離れて入るべき施設を探しているところです。もう十分に生きて疲れ果てた感じで、亡くなった連れ合いのところに早く行きたいと言っているのですが、それもままなりません。そうかと思うとSくんのお母様のように、早すぎる死もあります。
 Sくんとしてもこれから山ほどたくさんの親孝行の機会があると思っておられたでしょうに、それがこんな形で突然断ち切られたことには、忸怩たる思いがあることと想像します。しかしそれも運命です。

 私ほどの年齢になると分かることですが、子育てが終わり、社会的役割にも一応の区切りがつくと、案外あっさりと人生に対する未練はなくなるものです。何が何でも生きていたいという思いは薄れ、穏やかに日々を送ることの方が重要になります。
 子どもたちから親孝行をしてもらおうなどといった気持ちは少しも起こりませんし、気を遣われたり重荷になったりするくらいなら、山にでも籠ってずっと会わないでいる方がよほどマシです。
 早すぎる死はお母様にとっても不本意だったに違いありませんが、だからと言って「痛恨」だとか「断腸の思い」だとかいったことでもないでしょう。おそらく今ごろは天国で、「ちょっと早すぎたかな?」と、舌打ちしている程度です。齢を取ると生に耽溺しなくなるのです。だから残された者も、嘆きすぎないよう、後悔しすぎないようにすることが肝要なのです。

 人が亡くなると家族や周囲の人々には悔いばかりが残ります。ああしておけば、こうしておけばといった悔やみは、関係するすべての人々にとって共通のもので、それを互いに語り合い、共有することでしか慰められるものではありません。
「お悔やみ申し上げます」というのは、「私も悔やんでいるひとりです。悲しみの仲間に加えてください」という告白と申し出です。
 Sくんたちから遠く離れて住む私たちには、できることもほとんどなさそうですが、私たちもまた、ともにお悔やみを申し上げたいと思います。

 どうぞお心を落とし過ぎぬよう、一刻も早い日常の回復をお祈りします。

  2024年3月24日     T