クリスマスソングで毎日がハレルヤ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

クリスマスソングで毎日がハレルヤ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

クリスマスはしあわせな家族のメタファーです。サンタクロースは世界平和のアイコン。天かけるトナカイはまごころの象徴。
クリスマスは時代と地域をこえて奏でられる交響曲。そしてクリスマス精神は年中無休なのです。

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ある心象風景  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ちがっているからこそ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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じぶんがひととはちがうなとおもいはじめたのはすでに幼稚園のころでしたね。
いっつもひとりぽつんと教室にのこされておべんとうをたべていました。
たべるのがすごくおそくって、ああじぶんはなにをやってもとろくておそくてついていけないんだなあって。

だからみんなで絵をかく時間もきらいでした。
どうしてもほかの子みたいに絵がすらすらとかけないんです。
でもあるとき園でコンクールをすることになってやさしいわかいおんなの先生に
うながされましてね、がんばってかきました。

東京オリンピックの開会式の絵を。会場から色とりどりの風船がまいあがったんです。
時事ネタがよかったんですかねえ。みんなが鉄腕アトムとか鉄人28号のロボットとかを
かいてましたのでめだったのかもしれませんが、その絵がみごと金賞にかがやきました。
もしかしたら先生たちの配慮があったかもですが、
それが今でも人生ゆいいつの勲章でしょうか。
チャレンジしたことのご褒美だとおもってます。

ひととちがうという感覚が受けとめかたで劣等感になったり優越感になったり。
今年はじぶんのたどった街にいくときめていましたので、
そんなサムエル幼稚園にもいってきました。
もうあまりにも時間がたちすぎていてなつかしいという感覚はありませんでしたけれど
不思議なことにアポなしだったのにあいさつしたら園に迎えいれてくれましてね。
園長先生が案内をしてくれました。
とってもとってもあたたかくありがたかったです。

 

ちがってていいんだよという物語

赤鼻のトナカイ=ルドルフ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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それまでのトナカイは8頭立てだったようです。1822年アメリカの新聞に発表された聖ニクラウスの訪(おとな)いという詩によってサンタクロースがトナカイのそりにのってやってくるというイメージが定着しましたけれども、それから百年以上たった1938年、やはりアメリカのロバート・メイ(Robert L. May 1905-1976)によって、赤鼻のトナカイ=ルドルフの物語がうみだされます。時代はブラック・マンデー(株価大暴落)と呼ばれます金融恐慌の真っ只中。ロバート家はお母さんの病気によって貧しい暮らしをしておりました。どうしてお母さんはみんなとちがうの?そんな娘の気持ちは、幼いころから身体が貧弱でからかいの的だったロバート自身がずっと抱いていた気持ちでもあったことでしょう。ロバートはすぐに、みんなとちがう真っ赤な鼻をもつトナカイ=ルドルフ( Rudolph)の物語をかいてクリスマスに娘のバーバラに贈りました。

そしてロバートがつとめていた通信販売の会社でこの物語が宣伝用の冊子として無料配布されますとおおきな反響があったようです。そして1948年にロバートのいとこのジョニー・マークス(Johnny Marks)の作詞・作曲で赤鼻のトナカイが世に送り出されたというのがおおまかな流れになります。この人とちがっていてもいいんだよという物語は世界中で愛されるようになっておりますね。人間が皆ひとの個性を大切にできるようになっていけば世界はもっともっと住みやすいところになってゆくのですけれど。

 

 

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赤鼻のトナカイ Rudolph the Red-nosed Reindeer

You know Dasher and Dancer/And Prancer and Vixen,/Comet and Cupid/And Donner and Blitzen./But do you recall/The most famous reindeer of all?

みんな知ってるトナカイの名前/ダッシャ-にダンサー/プランサーにヴィクセン/コメットにキューピッド/ドナーにブリッツェン/でも思い出してみて/いちばん有名なトナカイの名前を
 
Rudolph the red-nosed reindeer/Had a very shiny nose/And if you ever saw it/You would even say it glows/All of the other reindeer/Used to laugh and call him names/They never let poor Rudolph/Play in any reindeer games
赤鼻のルドルフ ピカピカのお鼻をもっていた/君も見たらきっと光ってると思うかもね/ほかのトナカイ達は笑ってわるぐちさえ言っていた/一緒に遊んでさえくれなかった

 

Then one foggy Christmas Eve/Santa came to say/Rudolph with your nose so bright/Won't you guide my sleigh tonight?/Then all the reindeer loved him/And they shouted out with glee/"Rudolph the red-nosed reindeer/You'll go down in history!

ある霧の濃いクリスマスイブ/サンタが来て言った/ルドルフやその明るい鼻で道を照らしてくれないか?/仲間のトナカイ達はルドルフを見直して/歓喜の中こう叫んだんだ/赤鼻のルドルフお前は歴史に残るトナカイだよ!

 

   

9頭のクリスマストナカイ

トナカイの名前と性格  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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・Rudolph (ルドルフ)=夜道をてらす輝く赤い鼻
・Dasher(ダッシャ-)=dash(ダッシュ)突進する急ぐの意
・Dancer(ダンサー)=dance(ダンス)踊る跳ね回るの意(※メス)
・Prancer(プランサー)=prance(プランス)踊り跳ねる威勢よく進むの意(※メス)
・Vixen(ヴィクセン)=メスのキツネ口やかましい女の意(※メス)
・Donder(ドンダ-)=ドイツ語で雷鳴と稲妻の意(※Donner and Blitzen)
・Blitzen(ブリッツェン)=同じくドイツ語で雷鳴と稲妻の意
・Cupid(キューピッド)=ローマ神話の恋の神クピドの英語名
・Comet(コメット)=彗星ほうき星の意

 

それでは皆さまよいクリスマスを

 

 

いつも至福と共にありますように

 

Star Wars: The Rise Of Skywalker

これは過去シリーズの破壊作業完了とメッセージしてるシーンなんです

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わたしのバイブル  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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きのうから公開中のスター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明けをみてきました。
まんがいちもしかしたら奇跡がおきて大傑作になってたらいいなと思っていたのですけれども。
昭和34年生まれですと黎明期のこども番組はリアルタイムでみてますから。
テレビまんがのバイブルはウルトラシリーズになります。
光の国は菩薩の国だと思っておりますから。
そして最初のスター・ウォーズとの出会いから比較神話学のジョーゼフ・キャンベルと出会って
それがおおきかったのですけれども
劇中のフォースとおなじで神理はどこにでもあるはずなんです。
聖書のなかにあるはずです。あるいは映画のセリフのなかにもあるかもしれない。
出会ったひとの言葉のなかにあるかもしれないし、本やふと目にした雑誌のなかにあるかもしれない。
あるいはどこかのブログのなかに出会うかもしれません。

フォースの概念は考えかたや視野をとってもやわらかくしてくれました。
そんなわけでスター・ウォーズがもうひとつのバイブルなんですね。
それからクリスマスはこどものころからだい好きですので
しらべていくうちにイエスさまがふたりいることをしりました。
旧約聖書は神の御言葉を記したものですけれども
新約聖書はナザレの光のイエスの御教えと
そしてベツレヘムの闇のイエスの言葉が交ざっているものであることもわかってきました
新約聖書は闇と光の二重構造になっているようなんですね
どうやらほんとらしいですけれども。

 

わたし(イエス)はダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。(黙示録二二・16)

夜明けと名のつく映画をみて  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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そして実はディズニー製作になってからのスター・ウォーズも二重構造になっていまして
くわしくはメインブログの方につづっておりますけれども
製作会社の背後にいるクライアントからのシリーズをこわせという闇の指令と
よいものをつくろうとしている現場の光の働きとが葛藤しているのが新シリーズだと捉えると
映画が支離滅裂に迷走しているのも自分としてはしかたがないのかなと納得できます。

今回の新作そして最終作ですがにぎやかに物語が展開してはいますが、
どこもかしこもそして根本的に破綻して物語が成立しておりません。それはもうかなしいくらいに。

たまにこの手の映画につっこみをいれるのは野暮だという意見もあります。そういう場合もたしかにあります。

けれどもほぼフィクションでつくられた物語こそその世界におけるリアリティを大切にしないと

どんなでたらめも良いということになってしまいます。でたらめがすぎる物語に感情移入はできません。しんだにんげんが生きかえる。そうするのならばその理由になっとくできる説明がひつようになります。よくできた映画のばあい観客をあざむいたようにみえてもそこに設定上の整合性があればむしろ賞賛にかわりますから。この新シリーズの場合は過去のエピソードや約束事をうらぎるような展開があちこちに用意されてるような状態なのです。
けれどもそんな映画でも現場のスタッフはとても努力していると思います。
実際すばらしいテーマやあたたかなメッセージはまちがいなく込められております。
大事なのは映画や作品は送り手のものであると同時に受け手のものでもありますので
観客の思い入れの<器>として機能する面があります。
なのでだれかにとっては駄作でもべつのひとにとっては大切な大切な作品になるってことが
あるわけですよね。
この支離滅裂で破綻した映画をそれでも好きだという人はいて、
それはそれぞれ映画に求めているものがちがうからそういうこともある。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

映画を興奮や感動をあたえてくれる装置のように考えているひとにとってはリアリティや矛盾や齟齬は気にならない。それよりもいかに気分を高揚させてくれる仕掛けがそこにあるかが重要になってくる。よいわるいではなくて映画のみかたもそれぞれです。
そしてそれをお互いに否定してはいけないんですね。それをしはじめると同じ世界でくらしていけない。そういうイベント映画としてはこの映画は期待にこたえてくれる要素が多くあります。
旧シリーズも新シリーズもわたし自身がきらいになれるかというとそんなこともないんですね。
なにがあろうとも旧シリーズは旧約聖書にあたりバイブルです。
新シリーズはこれはこれで<器>としてやはり新約聖書でもあるんです。
自分のいろんな思いをそこに投影しますから。
クリスマスもまた<器>として機能しておりますね。クリスマスの歴史がまさにそういうものです。

様々な民間伝承をとりこみ、ひとの思いを吸収して成長してゆくおおきなおおきな<器>がクリスマスですね。この時期にデパートなんかに行きましてクリスマス風景を楽しむとすごくしあわせな気持ちになります。そして人間こころがひろくないとやっていけないですよね。この支離滅裂で破綻した映画が実はいろんなことを教えてくれてもいます。映画にうらぎられて同時にその映画が放っている輝きもみえてきました。やはりわたしにとっての新約聖書なんですね。闇も光もそこにある。そして夜明け前というのがいちばんくらいのでしょうか。

 

はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしのことを知らないと言うだろう (マタイ26:34) 

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こちらは新宿・伊勢丹デパートのクリスマスコーナー。毎年きれいなんですよね

こちらは新宿・高島屋エントランス前の飾りつけです

原題:"A Visit from St. Nicholas"

聖ニクラウスの訪(おとな)い  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

日本題名:聖ニクラウスの訪い/サンタクロースがきた/クリスマスの前の晩

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現在のサンタクロースのイメージを決定づけた詩がありまして、それは1823年にアメリカの新聞に無名で発表されました。その作者はコロンビア・カレッジの東洋・ギリシア文学教授クレメント・クラーク・ムーアといわれております。けれども異説もあります。ムーアの友人ヘンリー・リビングストン・ジュニアだとする報道が2000年にニューヨーク・タイムズにあった。しかしはっきりしたことはわからない。なのでいまだ作者不明なのですがその詩が現在でも愛されております。

●聖ニクラウスとは4世紀頃の東ローマ帝国小アジア・ミラの司教です。

貧しい三人の娘をたすけるため窓から金貨を投げ入れたという伝説がサンタクロースにつながってゆきます。真夜中に家をおとずれる。暖炉わきに下げられた靴下に贈りものが入った。そういうサンタのイメージがすでにここにあるようです。

●シンタクラース(オランダ語:Sinterklaas)は聖ニコラウスを起源とする民間伝承の人物です。サンタクロースはこの神話的存在から変化してきたようです。サンタの原型であるこのシンタクラースですが聖ニコラウスの日の前日に贈りものをする風習が北部オランダに現在もあります。

・白い顎髭をもつ厳格な老人

・白い僧正のアルバ(祭服)に赤いケーブをまとう

・ミトラ(司教冠)・ルビーの指輪・金色の司教杖をもつ

・白馬にまたがる

・赤い本をもっており子どもが過去1年によい子かわるい子だったか記されている

・ズワルビートという名の黒い顔のピエロをふたりお供につれている

・オーストラリアではクランプスという魔ものをつれている

●サンタクロースは新聞に発表された作者不明の詩においてイメージが定着します。

・恰幅がよく白髭でよく笑う

・贈りものの入った包みをせおっている

・8頭立てのトナカイのそりにのってくる

・家の煙突(天界の入り口)からおりてくる

・暖炉のそばにつるした靴下に贈りものをいれる

 

 

18世紀に入りましてクリスマスイメージがすでに現在のものに形作られてきたようですね。聖ニコラウス伝説が民間伝承のシンタクラースを生みそれがやがて世界で共有されるサンタクロースへとイメージが結実しました。人類の起源に存在したサタンニムロドの生誕祭からミトラ教の太陽祭へそしてキリスト教に取り入れられ、現在にいたるまで様々な地域の民間伝承をとりこみながらクリスマスは人と人の絆を祝うお祭りへと変化してきているのがわかりました。ですからクリスマスは世界中で親しまれ時代をこえ生き続ける神話といえるでしょう。聖ニコラウスの伝説を取り入れたときにクリスマスは良きおこないを意識する風習へとシフトしました。それがクリスマス精神でしょう。だれか個人の創作したものではなく、たくさんの人の善意の思いがそこにそそぎこまれます。クリスマスは時代と地域をこえて奏でられる交響曲のようでもあります。資本主義の世の中なので商いの章も奏でながらクリスマスという交響曲はときに悲しくときに楽しく、ときに荘厳につむがれてゆきます。人類の起源と同時に誕生したクリスマスですから人類の終末まで存在し続けるのではないでしょうか。たとえひとりぼっちの身であっても自分のいる場所をささやかに照らしながら、世界のしあわせを願う唄をうたいクリスマスの交響曲に加わりたいと思います。今年もクリスマスが近づきましたね。

 

 

聖ニクラウスの訪(おとな)い "A Visit from St. Nicholas"

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それはクリスマスのまえのばん家中で/いきものはネズミさえもうごかなくなったころ/くつしたはえんとつのそばにさげられていて/サンタクロースがくるのをまっていた/こどもたちはベッドにねしずまって/あたまのなかで砂糖入り菓子がおどっていて/ママは布をかぶっていてわたしは帽子をかぶり/ながいよるの眠りについたときに/とつぜんそとの庭でおおきな音がしたので/わたしはベッドからとびおきてなんだろうとおもい/窓のそばにいって雨戸をあけた/ふったばかりの雪のうえに月が/ひるまのように光をなげていた/すると目のまえになんと/ちいさなソリと八頭のトナカイがみえて/ぎょしゃが元気なおじいさんだったので/サンタクロースだとすぐわかった

ワシよりもはやくトナカイたちはとんできて/サンタさんはおお声で名前をよんだ/そらダッシャー/そらダンサー/それプランサー/そらヴィクセン/行けコメット/行けキューピッド/ドナー/ブリッツェン/ポーチのうえまで煙突のうえまで!/早く走れ/それ走れ/みんな走れ!/ハリケーンのまえで枯れ葉が舞うように/なにかにぶちあたるとソリはそらへ舞いあがる/だからトナカイたちは家の屋根のうえへ飛んで行った/おもちゃがいっぱいのソリとサンタクロースをのせて

わたしがおどろいていると屋根のうえに/トナカイたちがコトコトうごいているのがきこえた/
頭をひっこめてぐるりとまわしたら/サンタさんがポンと煙突をおりてきた/サンさんはあたまからあしまで毛皮の服をきて/それが灰とススにまみれていた/うしろにはおもちゃをたくさんせおって/つつみをひらくまえの行商人のようだった/目がひかっていてえくぼがしあわせそうで/ほほは紅いろでサクランボみたいだった/ちいさなくちを弓のようにして/あごには雪のようにしろいヒゲをはやして/歯にはパイプをきつくかんで/けむりが花輪のようにあたまをめぐっていた/サンタさんのかおはひろくてまるいおなかは/わらうときにふるえてジェリーがはいったボウルのようだった/かわいくふとっていてゆかいなようせいのようだった/おもわずわらってしまったわたしに/目をウィンクしてあたまをかしげたので/なにもこわくないとすぐわかった/ことばはなにもいわなくてすぐしごとにとりかかって/靴下をいっぱいにしてくるりと身をまわして/そしてゆびをはなのわきにおいて/それからうなづいて煙突をのぼっていった
それからソリにとびのってトナカイたちにくちぶえをふいて/枯れ草が舞うようにとんでいってしまった/でもみえなくなるまえにサンタさんがさけぶのがきこえた/クリスマスおめでとう!みんなおやすみ!

 

 

クリスマスの歴史をまとめてみました  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

さて12月ともなりますと街はクリスマスムードに彩られます。クリスマスカラーは赤・緑・茶色でしょうか。なにか気持ちまで華やかになります。わくわくした気分で飾りつけをします。サンタさんからのプレゼントを心待ちにしたり、家族や恋人とのイベントに心躍らせる季節ですね。そこでちょこっとおそろしくもあるクリスマスのあれこれ覗いてみましょう。
キリスト(Christ)そしてミサ(miss)なのでクリスマス(Christmas)ということになっておりますね。
12月25日はイエスさまのお誕生日でそれをお祝いするお祭りがクリスマスである。そういうものだと思っておりますよね。
まずイエス・キリストという名前は称号のようなものです。イエスはキリストであるという意味です。
イエス(Iēsūs)はヘブライ語からギリシャ語へなおされたもので英語よみではジーザス(Jesus)。救うものを意味するようです。
キリスト(Christ)もヘブライ語のクリストス(Khristos)からきておりまして、
メシア(mashiach=油を注がれたもの)を訳したものでありこちらもまた救世主を意味します。
イエズスというのはかつてのカトリック教会での日本語表記のことらしいですね。
 

 

12月25日誕生日の謎  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ところがですよ。クリスマスの歴史をひもといてまいりますとまず12月25日はキリストの誕生日ではないのだそうです。
少なくとも聖書にはその記載が見当たらない。イエスさまの誕生日をお祝いする生誕祭としての12月25日のようです。イエスさまの降誕を記念する祭日ということですね。
しかもそもそもイエスは二人いた。そういうお話も出てきます。
●ベツレヘム・ソロモン系の奇跡を起こしフリーメイソンをおこしたとされる闇のイエス

●ナザレ・ナタン系の崇高な御言葉をのこした光のイエス
1887年にチベットの寺院で聖イッサ伝(これはイエスのアジアでの呼び名ですけれども)の写本が発見されます。
知られざるイエス・キリスト伝という本にまとめられました。ニコラス・ケービッチという人物です。闇と光のふたりのイエスさまの存在。クリスマスをしらべていきますとこの闇と光の構造が不思議といくつもみられるのですが。

 

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では12月25日はどこからきたのか?と云いますと、太陽神ミトラスが冬至に死んで3日後の25日によみがえるとするミトラ教からきているようなんです。ミトラスの誕生日だとする説もあるようですがミトラ教では豊穣を祝い性行にはげむ日が12月25日なのです。
しかしさらに遡りますとにニムロドという古代バビロニア時代の人物の誕生日が12月25日だとする記述にたどりつきます。
ニムロドとはバベルの塔を建設したとされる<666>の数字の持ち主でありサタンといわれております。
ヘブライ語でそれぞれの名の意味はこうなります。
ニムロド<我々は反逆する>
サタンは<神をさまたげる>

 

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クリスマスの起源と遍歴  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

おめでとうクリスマスのイメージがすっかりデビルムードになってまいりました。

クリスマスの起源は人類の起源と同じところにありましたよ。

人類初の都市国家を築いた人物ニムロドの誕生日を祝う安息日がそののち太陽神復活祭(冬至)のミトラ教と合流します。

そしてローマ帝国が民衆をとりこむためにキリスト教のお祭りにしていったという流れになってきます。それだけではありません。そこに北欧の聖ニコラウスの伝承とクランプスの行事がさらに合流してきます。聖ニコラウスは4世紀頃の東ローマ帝国小アジアの司教。貧しい人々に施しを行い学問を守護する聖人伝承なんです。

そうここでサンタクロースのイメージの原型がクリスマスに入ってくるのです。

そしてクランプス(Krampus)というのは子どもをよい子にするように叩いてまわるおそろしい顔をした怪物なんですね。

日本のなまはげにひじょうに近いです。ドイツ語のかぎ爪(Krampen)を由来とするんですよ。

北欧神話ででてくる女神ヘルの息子で聖ニコラウスの相棒としてわるい子にはおしおきをして自分のねぐらに連れかえる。

ちょっとこわいクランプスさんですけれどもよい子にはわるさをしないのがポイントです。

こうしてクリスマスの歴史もここにきて良いイメージが風習の中に入ってきているのがわかりますね。ある日ニコラウスは貧しいお隣の屋根の上の煙突から金貨をなげいれたんですね。するとちょうど暖炉に干していた靴下にその金貨が入ったそうです。まあそれが靴下にプレゼントを入れるというイメージにつながっていきます。

ちなみに煙突は古来より天界の入り口と言い伝えられておりました。

 

クリスマスは闇を浄化するお祭り  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

サタンの前身のルシフェルは誰よりも神を愛している存在だったようです。けれども人間に仕えよという神の命にそむき地獄の帝王になったんですね。ならば地獄に堕ちよという神の記憶をたよりに神ときりはなされた孤独にたえているのがサタンらしいのです。そのサンタだとされるニムロドの生誕を祝うお祭りとしてはじまったクリスマス。それだけではないということなのですね。

でもまだここでは空をとぶトナカイがでてきません。

トナカイが空を飛ぶのは北欧の魔法を使うといわれていたサミーという遊牧民族のイメージからきているようです。かれらがトナカイと暮らしていたんですね。それから赤鼻のトナカイさんのお話もあたたかな善意にもとづいたエピソードがあるんですよ。

どうしてわたしのママはみんなとちがうの?広告宣伝のコピーライターだったロバートの娘バーバラの嘆きです。お母さんが病に倒れその治療代で家族は苦しい生活をおくっておりました。みんなとちがっていていいんだ。これをテーマにロバートが娘のために即興でこしらえた物語がそののち1939年にルドルフ赤鼻のトナカイという題名で会社の宣伝用冊子として配布されました。それから別のお話ですがサンタさんが赤い服を着るようになったいきさつも諸説あります。

つまりクリスマスは世界中の様々な伝承やエピソードを取りこみながらだんだん大きくなっていく大河のようなものなんですね。そしてその流れはやがて大海へと世界を運んでくれるのではないでしょうか。

 

サタンとサンタのアナグラム  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

世界の様々な風習を取りこみながら成長してゆくクリスマスは悪魔のお祭りとはいえません。
それは現在進行形でみんなでつくっている暗きものを輝くものに変えるお祭り。そして祈りだと思うんです。
それは言葉からもあきらかです。クリスマス(=Christmas)は、
<Xmas>または<X’mas>と表記されますが、
この<X>はギリシャ語でキリスト(=救世主)を意味する<Χριστός(=クリストス)>の頭文字です。
そして同時にこの<X>はニムロドの象徴でもあるようです。このようにここでもクリスマスには闇と光の二重の意味がこめられている。聖ニコラウスにはクランプスがセットであるように。そしてサタンはほんとうに神を妨げるものなのかということなのです。
いえ悪魔は人をためすお役目をしながら神に近づける働きをしている存在ととらえたほうがよいと思います。もともと大天使なんですからね。
サタン(SATAN)を並べかえるとサンタ(SANTA)になるんですけれどもこれも同じことですよね。それをどちらかきめるのが人間の営みなんです。サンタは人間の在るべき姿の象徴。クリスマスの魔物はエゴにまみれた人の末路の象徴。闇のイエスの奇跡だけにたよるのか。それとも光のイエスの神の御言葉を生きるのか。どちらも別々の役割を担いながら人間をよい方向へと導いている。わたしはそういうことだと思っています。クリスマスがいかに大切なものなのか。クリスマスがなぜこんなにも宗教や国教をこえて親しまれなじまれているのか。
こわいお話も入っておりますが不思議で大切なクリスマスの始まりの物語をまとめてみました。

 

 

クリスマスでは聖なるものと魔物が共に人に働きかけています

人間よまごころにめざめよ魂にめざめよと

 

 

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昨日の雪はたいして積もらなかったですね。
けれども雪が降ったあとの冷気のすさまじさ。わたしはと云いますと一昨日あたりにキムチを食べてからずっとお腹の調子がよくなく、軽く風邪もひいているようであります。
今日はお休みだったのであ助かりました。友だちの米ちゃんが先日落札した指人形を引き取りに来ました。何でもキカイダーのそれはホビーOffなどでも中々見つからず、検索してみるとオークションにでていたのでわたしが代わりに落札したのでした。
わたしが十年くらい前にやっていた趣味を今は彼がはまっているようです。お互いにいい年をしたおじさんなのですが、日本の平和な風景ではあります。
かれがうちに着いた時間は夕方の四時少し前でしたが、立川のホビーOffに行こうということになり、彼の車でひとっ走りしてみました。あるわあるわ、このお店はおもちゃや家具や小物やオーディオビジュアル関係の中古品であふれております。
アナログのレコードプレーヤーやレーザーディスクプレイヤー、昔のウォークマン関連、カメラとありとあらゆる品物が所狭しと置かれており、どれを見ましてもかつて生活を彩ったであろう品々ばかりであります。
七十年代の品ですとそこそこの値が付いておりました。今はネットで検索すればだいたいの相場がわかるのでしょうね。

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どこに行きましても市場で定まった相応の値段がついていて、いわゆる安くて掘り出し物というものはあまりないのでしょう。  

とくにおもちゃのコーナーは色とりどりで賑やかでありました。怪獣やらロボットやら、フィギュアや可愛いお人形さんやら、使い古されてぼろぼろになったアイテムたちが新しい持ち主に引き取られてゆく日を夢見てそこにいるような感じがします。
そう、わたしは何となくここがサンタさんのプレゼント工場のような気がしてきたのでした。
たしかサンタさんのプレゼントを造る工場は北極にあって、工場ということはそこで新品のオモチャを造っているわけですよね。
日本のように幼い頃からテレビ漬けでアニメや特撮物を観て育ってきている身としましては、中古でもよいから子どもの頃の懐かしのアイテムの方がクリスマスプレゼントとてはありがたいのですがね。
でも大人のマニアにとってはそうであったとしましても、子供にとってはもっと創造的なおもちゃの方が贈り物としてふさわしいでしょうね。
ひとつとても懐かしいアイテムとして、昔、父親が使っておりました二眼レフの上からのぞくようにして撮るカメラが一台置いてありまして懐かしかったです。親父の形見として鹿児島から持ち帰ったカメラは、その後に買ったであろう一眼レフのカメラでありましたから、あの二眼レフのカメラはとうに処分されてしまったのでしょう。
いつどこで捨てられてしまったのでしょうね。
いつかあの世に帰った時に、そんななつかしの品々が魔法のように自由に現れて再会できないものかと夢想してしまいます。
そんなあの世のサンタさんはいないものでありましょうか。。