さすがに長すぎますのでw

 

第9条の残りの部分を一気に見てみましょう

 

 

今回で最終回!

(↑長かったわ!w)

 

 

 

 

○『歎異抄』全体に漂う「現場の雰囲気」は明るく、笑顔が絶えず、カラッと爽やかな、楽しい雰囲気である

○筆者唯円は「『歎異抄』に書かれていることがすべて正解」として書いているので、読者個人の感情面などのフィルターを排除して読むと「迷子」にならずに読める

 

 

ここさえ押さえておけば大丈夫です

 

 

 

 

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為(しょい)なり

(喜ぶべき尊いおみのりをいただいて、喜ぼうとする心をおさえとどめて喜ばないのは、煩悩のしわざです)

 

 

しかるに仏かねてしろしめて、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかなくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり

(しかるに仏は、このような私であることをかねてからお見とおしのうえで、煩悩具足の凡夫を救おうと仰せられているところですから、他力の悲願は、このように浅ましい私どものためであったと気づかされてますますたのもしく思われます)

 

 

 

ここからしばらく「煩悩」という言葉が出てきます

 

 

 

辞書に

 

煩悩
読み方:ぼんのう

煩悩(ぼんのう)とは、「身心を悩まし煩わせる心のはたらき」を意味する仏教の用語。

迷いや苦しみの原因となる心のけがれ。

典型的には「貪瞋痴の《三毒》」など。

通俗的には、とりわけ「物欲」および「性欲」を指す意味で用いられることが多い。(引用元)

 

とありますように

 

 

 

一般的には

 

「煩悩=悪」

 

という印象があり

 

 

 

まして親鸞という後に神格化された人物

 

「煩悩だらけの私」という言い方をしたので

 

後世の人々は「分からない」となったのです

 

 

 

ただ、シリーズ⑥で述べたように

 

○神格化された「覚者のイメージ」は後年つくられた思い込みであり、覚者たちは「普通の人間」であった

 

のです

 

 

 

 

勝手に「神格化」した(せざるを得なかった)のは後世の人間であり

 

「人間親鸞」と実際に本人と会って知っている筆者唯円は

 

「等身大の親鸞」の姿を神格化せずにただ書いた

 

だけで、後に

 

 

 

「この爺さまが神格化され」

「爺さまの姿をそのまま書いた本が発禁処分」

 

になるとは夢にも思わなかったでしょうw

 

 

 

ナマで親鸞に会っている唯円にとって

 

「煩悩はあって当たり前」であり

 

「親鸞は煩悩ありまくりなお方」と唯円は知っており

 

「煩悩と悟りは無関係なので、そこは別に大した問題ではない」と分かっている

 

のです

 

 

 

なので、親鸞も自分を「煩悩愚禿なおいら」カラッと言っていて

 

唯円が「その言葉を書く」のは当たり前なのです

 

 

 

なぜなら、唯円にとって

 

親鸞が神格化されるw

 

などとは露ほども思わなかったからです

 

 

 

 

 

目の前の親鸞という爺さまは

 

「比叡山で学んだ超エリートのお坊さま」

 

にもかかわらず

 

 

 

流刑に遭い

嫁さんがいて

子どももつくっちゃったくらい

 

煩悩だらけですが(失礼!)

 

 

 

 

 

「悟り」という表現なら

 

煩悩を消した人が悟るわけではない!

 

ということを

 

 

 

唯円は親鸞を通じて

 

普通に知ってた

 

わけです

 

 

 

 

この文章の構図は

 

喜ばないのは煩悩のしわざ


ますます頼もしい!


でして、これは

 

 

 

 

煩悩の大肯定

 

です



煩悩はあって当たり前で

 

「あるがままでいいんだよ~」

 

って言ってるわけです
 

 

 

 

 

ここも「歎異抄が分からない」ポイントでして

 

親鸞は決して「煩悩ある我が身」を嘆いているわけではなく

 

「煩悩のしわざ」

「ますます頼もしいな!」

 

と、カラッと明るく言っているのです

 

 

 

 

 

筆者唯円は、なぜこの部分をわざわざ書いたのか?

 

なぜ後世の読者は、「親鸞は煩悩ある我が身を嘆いている」とミス・リードをしてしまうのか?

 

 

 

といえば

 

これは現在のクソスピにも通じますが

 

 

 

煩悩が悟りの邪魔をしている

煩悩を消去、打ち消す修行が必要である

 

という【価値観】が「当時すでにあり」

 

「現在もしっかりあるからw」

 

です

 

 

 

それは違いますよ~

あるがままでいいのよ~

大正解の親鸞の言葉を読んで下さ~い

 

と、筆者唯円は鼻高々で言いたかったのです

 

 

 

 

だから唯円は

 

この部分の言葉をわざわざピックアップして書いた

 

わけです

 

 

 

 

 

 

続いての箇所も「まったく同じ構図」です

 

 

また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり

(また急いで浄土へ参りたいというような思いがなくて、ちょっとした病気でもすると、もしや死ぬのではなかろうかと心細く思うのも煩悩のしわざです)

 

 

久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ

 

(久遠の昔から、ただ今まで流転しつづけてきた迷いの古里(ふるさと)は、苦悩にみちているのに捨てにくく、まだ生まれたことのない浄土は、安らかな悟りの境界(きょうがい)であると聞かされていても、慕わしく思えないということは、よくよく煩悩のはげしい身であるといわねばなりません)

 

 

なごりをしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり

 

(まことに名残はつきませんが、娑婆にあるべき縁が尽きて、どうにもならなくてこの世を終わるときに、かの浄土へは参るはずのものです)

 


いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり

 

(いそいで参りたいという殊勝な心のないものを仏はことにふびんに思われているのです)

 

 

これにつけてこそ、いよいよ大悲願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候へ

 

(それを思うにつけても、いよいよ大悲の本願はたのもしく仰がれ、この度の往生は決定であると思いたまうべきです)

 

 

 

死ぬのではなかろうかと心細く思うのも煩悩のしわざ

浄土は安らかと聞いても慕わしく思えないのも煩悩

でもいずれ浄土へ行く

煩悩ある人間を仏はあわれんでいる

この度の往生は決定

 

 

 

「文語体」からの意訳文の「もの悲しさ」に引きずられないことですw

 

「煩悩=悪」

「神格化された親鸞像」

 

から離れてしまうことです

 

 

 

「大正解マン」親鸞は

 

どこまでも煩悩を肯定していて

 

 

煩悩があるからこそ「この度の往生は決定」

 

と言い切っているのです

 

 

 

 

 

ちなみに上の構図の

 

でもいずれ浄土へ行く

煩悩ある人間を仏はあわれんでいる

 

ですが

 

 

 

このブログでもいつも言っている

 

非物質のガイドさんは

肉体やってるあなたを敬愛している

 

ということと同じことを親鸞は言っているのです

(実際に親鸞は「ガイドさんと会う」という体験をしている→参照)

 

 

 

 

原文は「あはれみたまふなり」とあり

 

意味は「しみじみと感じる」です

 

 

 

あなたがこの3次元で眼耳鼻舌身意を使って遊んでいることを

 

非物質のガイドさんもこれまたあなたと共に「しみじみ感じている」

 

のです

 

 

 

 

 

では、「第9条」最後の文です

 

 

踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひまなしと云々

 

(念仏するにつけて、天地におどりあがるほどの喜びもあり、また急いで浄土へ参りたいと思うようならば、自分には煩悩がないのであろうかと、かえっていぶかしく思うでしょう」と仰せられました)

 


 

躍り上がる喜び

はやく浄土へ行きたい

煩悩がない人ならそうかもね

(そんな奴はいないでしょ?)

 

という構図です

 

 

 

ここで第9条の冒頭へ戻りました

 

 

 

『般若心経』のときにも言いましたが

 

『歎異抄』も非常に論理的に書かれており

 

読みやすい文章の運びになっています

 

 

 

 

 

さて

 

現在も不祥事を起こした人をネットでさんざんに叩く

 

ということがあります

 

 

 

しかし、私たちは

 

「すでに許されている」

 

のですよw

 

 

 

「すでに許されている」

 

ということを知らないので

 

「ネットで叩く」ということをやるわけです

 

 

 

 

既存の宗教や現在のスピリチュアルにも通じますが

 

煩悩が悟りの邪魔をしている

煩悩を消去、打ち消す修行が必要である

 

という【価値観】は、まったく意味がありません

 

 

 

なぜなら

 

肉体と心ある限り

煩悩を消すことなど

決してできないから

 

ですw

(誰もがメシ食うでしょ?)

 

 

 

 

 

 

ここで思い出すのは、イエスの

 

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。

だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

マタイ5,27-28(引用元)

 

という言葉です

 

 

 

この部分はいわゆる「モーセの十戒」の7番目

 

「なんじ姦淫するなかれ」

 

という「教えを改めた」うえで非常に重要です

 

(引用元)

 

 

 

聖書のこの文章を素直に見て分かるのは

 

当時の人々は

 

不祥事を起こした人をさんざん叩く現代人と同じく

 

実際に当時「姦淫した人」をさんざん叩いたw

 

であろうということです

 

 

 

「さんざん叩く人々をイヤというほど見ているから」こそ

 

イエスはわざわざこのように説き

 

このイエスの言葉をマタイは紹介したのです

 

 

 

 

 

そうした人々の姿を見たイエスは

 

「いやお前ら違うってw。

女性を見てイメージの中でエッチなこと考えただけでも、姦淫したことになるんだよ」

 

と言っています

 

 

 

現代で言えば

 

アイドルを見て「うへへ」ってなってる奴

 

のことを言っているわけですw

 

(引用元)

 

 

 

つまり、イエスの真意は(ついでに親鸞もw)

 

「お前ら『実際に姦淫した奴』をさんざん叩くけどさ、エッチなことを想像するだけでも同じことなんだよ?

 

じゃあ逆に聞くけどさ、この中に「エッチなことを想像しなかった奴」っている?

いないでしょ?w

 

お前ら全員「姦淫した」んだよw

お前らが叩いてる「実際に姦淫した奴ら」と「お前ら」は、何も変わらないんだってのw

 

つまり、煩悩は誰も消せないんだよ。

 

そこから先、湧き上がる煩悩を「実際に姦淫するか、しないか」は、人知を超えた「縁」っていうやつなんだわ。

 

「縁」があれば、「私は絶対に姦淫しない!」と固く誓っていても実際に「する」し、

 

「縁」がなければ、「うへへ姦淫してやろう!」と固く思っていたって絶対に「できない」。

 

これは「その存在の縁」、すなわち必然であり、善悪もなく、それだけの違いなのさ。

 

俺たちは「すでに許されている」っていうことが分かってりゃ、不祥事を起こした人に対して心から寄り添い、愛しこそすれ、『さんざん叩く』なんてことはできないんだよ」

 

っていうことです

(『歎異抄』の第13条と絡めていますが、ややこしくなるのでまた別の機会に)

 

 

 

 

 

 

「第9条」の最後の構図

 

躍り上がる喜び

はやく浄土へ行きたい

煩悩がない人ならそうかもね

(そんな奴はいないでしょ?)


と、上のイエスの言葉は

 

 

 

分かっちゃった人の言葉

 

なわけです

 

 

 

 

 

 

「躍り上がる心」も通り過ぎ…

「はやく非物質の世界に行きたい」わけでもなく…

 

 

煩悩そのままに

この地球で肉体の人間を謳歌する…

 

 

静かに

落ち着いて

ひとりでに湧き上がってくる

 

なんか知らんが心楽しい

なんか知らんが心嬉しい

わけがわからんがありがてえ

 

 

これでいいのだよ~

 

と親鸞は言っているのです

 

 

 

 

シリーズ最終日の今日は

 

○親鸞は「煩悩」を肯定している。なぜなら肉体があるということは煩悩とともに生きるということだから。「煩悩が悟りの邪魔をしているので煩悩を消去、打ち消す修行が必要である」という【価値観】は当時からあったが、第9条で筆者唯円は、そういう人々へ「それは違いますよ」と訴えた

 

てなことを確認しました~

 

 

 

 


ふう、なんとか第9条が終わりました〜

(↑長かったぞ!w)

 

 

 

 

ケンタでさんざん食った後

 

「ふう、しばらくケンタはいいや!」

 

と、同じ感覚ですw

(でも、意外に早く次のケンタはやってくる)

 

 

 

忘れかけてますがw

 

今回のシリーズの結論としては

 

 

『歎異抄』の解説書は

つかず離れず

距離をとって読もう

 

です

 

 

 

これまで数々の「歎異抄の解説書」に触れてきましたが

 

読むにつれ分からないw

 

という感想を持ちました

 

 

 

これは当たり前で

 

解説者がお分かりになっておられない

 

というのが理由でした

(ご本人方がそうおっしゃっている)

 

 

 

「分かっていない」と言っている方が書かれているので

 

ますます迷子になっていったw

 

わけです

 

 

 

 

現代の僧侶や作家、研究者さんはもちろん

 

『歎異抄』を発禁処分にした蓮如の時代から

 

 

「お寺にはヒエラルキーがある」

 

ということをやっており

 

 

「それが当たり前のすがた」

 

というのがしみ込んでいます

 

 

 

そういった一般的な「ヒエラルキー」や「師弟関係」のイメージで

 

『歎異抄』を読んでしまうと

 

書き手も読み手も「迷子」になってしまうのです

 

 

 

 

私ジーナはヘミシンクのおかげで非物質の世界を歩くようになり

 

その後、歎異抄を読んでみると

 

ああ、なるほどね〜!

 

と、納得したのでした

 

 

 

 

 

『歎異抄』というマイナーな本の解説に

 

文字数多めにもかかわらず

 

長いことおつき合いくださりありがとうございました

m(__)m

 

 

 

また、たくさんの方々のコメントも

 

この記事を書く力

 

になったことを、最後に心からの感謝とともに付け加えさせていただきます

m(_ _)m

 

 

 

 

このシリーズの【まとめ】

○『歎異抄』は理解できなくてよい、という空気がある
○『歎異抄』には「等身大の親鸞」の姿が描写され、後世の人々にはそれが驚きであった
○『歎異抄』の筆者唯円は「読者に分かってもらえる」と確信して筆をとったので、後に発禁処分になったり、『歎異抄』は理解できなくてもいいという雰囲気は、筆者唯円にとってかなり想定外であるはず

○「覚者の姿」の一般的なイメージは「聖人君子」である
○神格化された「覚者のイメージ」は後年つくられた思い込みであり、覚者たちは「普通の人間」であった
○「人気のある人」の条件は現代と鎌倉時代とでは大きく異なるが、「面白い人」という点は共通している
○「覚者」のイメージは「陰キャ」よりも「陽キャ」のほうが、人前で説法する外面的なイメージとしては正確である。すなわちユーモアがあり、エロスを理解し、カラッとしている

○『歎異抄』が成立した鎌倉時代の平均寿命は24歳。なぜ現代と比べてかなり低いのかといえば、新生児医療が未発達で赤ちゃんが亡くなりやすい環境だったから

○「女性はたくさん子どもを産む」ことを求められていた時代が長く続いた

○鎌倉時代の庶民は「ワンシーズン経つと、知り合いが死んでいるのが当たり前」の時代に生きていた

○鎌倉時代の庶民の人生観は「楽しいことしたい!」という「享楽的なスタンス」「享楽を求めるスタンス」であり

人々は笑い合い、祭りや収穫を心待ちにし、生きるエネルギーに満ち溢れていた

○子をしつけ、叩く慣習などそもそも日本に無く、少なくとも戦後に生まれた思想

○子をしつけ、叩く慣習は「朱子学」「軍国主義的雰囲気」「戦後の左翼教育の台頭」と関りがあり、それは戦後の日本人の長寿化によるものである

○第2次大戦以前の子どもは「親からのコントロール」が現在と比べるとかなり少なく、それは親(大人)自身が享楽的だったからである

○鎌倉時代は「若者ばかり」で賑やかで活気があった。そして、若者は流行が好きで、ブームをつくり、新しいものに目がないという一面がある

○「あの世に地獄極楽がある」と信じられていた時代、「念仏や題目を唱えるだけで極楽浄土へ行ける」という情報は、享楽的なスタンスの民衆に広く受け入れられた

 

○親鸞が去った関東で、親鸞の教えがゆがめられた。その1つは「専修賢善」と呼ばれ、特別の宗教儀礼によって人為的に感動をあたえ、恍惚状態に導くものであった

○親鸞は「念仏だけ唱えればOK」と説き、「専修賢善」は説かなかった。「第9条」は「それは違うのだよ」という親鸞のことばを筆者唯円が取り上げたものである

○『歎異抄』は会話文も文語体で書かれている。そのために現場の雰囲気は読者にゆだねられている

○『歎異抄』全体に漂う「現場の雰囲気」は明るく、笑顔が絶えず、カラッと爽やかな、楽しい雰囲気である

○筆者唯円は「『歎異抄』に書かれていることがすべて正解」として書いているので、読者個人の感情面などのフィルターを排除して読むと「迷子」にならずに読める

 

○「第9条」は念仏をしても「躍り上がる心」が湧かず、「急いで浄土へまいりたいと思う心」も湧かないのは「残念なこと」ではなく「それは素晴らしいこと」であるという親鸞のスタンスを提示している

○「躍り上がる心」を求めるのが幸せではなく、むしろ「躍り上がる心が湧かなくなった」からこそ往生は決まった

○親鸞は「煩悩」を肯定している。なぜなら肉体があるということは煩悩とともに生きるということだから。「煩悩が悟りの邪魔をしているので煩悩を消去、打ち消す修行が必要である」という【価値観】は当時からあったが、第9条で筆者唯円は、そういう人々へ「それは違いますよ」と訴えた