夢中

夕映えのげんげ畑の立ち話

一面が紫の田が目を引いた。

いつもなら素通りするところ、遠回りして近づいてみる。
近所の主婦と見える三人組は見飽きたであろう蓮華草には見向きもせず、暗くなろうとしている時間をなお井戸端会議中の様子。
バイクを停めて見入っている人間もまったく目に入らないらしい。

油断

水筒を忘れし鍬に春行けり

雨から一日おいて土にさわった。

作業が遅れ気味で焦りがあったか、天気がよかったのにうっかり水をもっていかなかった。
案の定少し動いただけで喉の渇きを覚える。
もう少し暑い日なら下手すると熱中症になりかねない。
くわばら、くわばら。

坂の多い街

住み登る邸宅多き山朧

生駒山の裾から中腹にかけてかなりの規模で住宅街が広がる。

ケーブルカーが通勤通学の足となっているが、それでも不便ではないのだろうかといつも不思議に思う。
大阪側には奈良側ほど高くまで住んでないようだが、生駒の街につづく近鉄奈良線(帝塚山)学園前駅周辺も坂道の多い街。どれも立派な家が建ち並び、いかにもの高級住宅地である。
大阪あたりに仕事場をもつ人たちの住宅街と思われる。
芦屋なども同様にもとは船場の豪商などが住み始めた高級住宅地で坂もまた多い。
田園調布もまた然り。
所得の高い人はなぜか坂の街に住みたがるものらしい。
拙宅も坂の街だが、ここは平地に土地になくなって止むを得ず山裾を開発してできたもの。同じ坂の街でも生駒には到底かなわない。

雨のあとのせいだろうか、空気が重い。
灯の点りはじめた生駒山住宅地もベールをかけたようにおぼろである。

健在

春陰のなほもて深き下葉かな

コントラストが深い。

この季節は新緑と深緑の落差が大きいのが魅力で、どちらかというと人は新緑、若葉のほうに目が向きがちだ。
しかし、今日のようなどんよりとして今にも雨が来そうな一日ともなると、その深い緑があやなす陰影こそきわだって美しく見えることがある。
たとえば、半日陰がいいとされる紫陽花も芽吹きはとうに終えて新しい葉を展開中だが、それが大きな樹の蔭にあると深緑の存在として訴えてくるものがある。
西洋化によって日本文化の「陰翳」という美意識が失われつつあるのを嘆いたのは谷崎であるが、自然にはまだまだ健在の美しさが残されており、それをまたしばらく眺めて至福の時間が流れることを再認識した日である。

季節先行

行春の昼八つしばしウェブの句座

何をやるにも最適の季節。

その昼間のゴールデンタイムの二時間ほどをZOOMの句会で過ごす。
家にいながらにして即座に各地のメンバーが一堂(一画面?)に会せるのは大きな魅力。それぞれが時間を工夫しての参加であるが、用事があったり体調が悪かったりしても個人の意思で参加は強制しないからゆるい句会とも言える。
幹事をしていると会議の管理・進行もあって抜けるわけにはいかないので今のところ皆勤だが、もしかに備えて代行役をお願いすることも頭に置かなければと思いつついまだ実現していない。
次回は五月初旬。すでに頭の中は季節を先回りして夏に切り替わろうとしている。

樹形

降りさうな風の来てゐる若楓

おざなりの鉢の楓の若葉がまぶしい。

住宅メーカーにもらった苗から育てて十年ほど。地植えのものの種が芽生えたので鉢で育てたものだ。親の樹はあまり背が高くならぬよう毎年切り下げてきたが、それでもいつの間にか見上げるほどの高さに成長してきて、素人なりに悪くない樹形である。
両者とも今は滴るような若葉がしっかりひろげてきて、少しの風にもゆれて目を和ませてくれる。
午後に雨となって、またいちだんと瑞々しさが加わったようだ。

初夏

紫に波打つなぞへ芝桜

初夏の花がいっせいにつぼみを弾きはじめた。

躑躅の下の斜面には一面の芝桜。
十年ほとんど手入れもせずに少しずつテリトリーを増やしてきた。当初は何種類かを植えたのがしまいには一種類に絞られてしまった。この薄紫の株が一番環境に適していたようだ。
桐といい、藤といい、初夏には紫の花が似合う。