天照大御神の三種の神器 八咫鏡 八尺瓊勾玉 草薙剣

(Wikipediaより引用)

因みに八咫鏡は伊都国の平原王墓から出土した内行花文鏡のようである。

 

時、彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。

時斬蛇尾而刃缺、卽擘而視之、尾中有一神劒。

素戔鳴尊曰「此不可以吾私用也。」乃遺五世孫天之葺根神、上奉於天。

此今所謂草薙劒矣。

 

この時、彼の処に人を呑む大蛇が有りました。

素戔嗚尊、乃ち天の蠅切の剣(あまのははきりのつるぎ)を以て、彼の大蛇を斬る。

すると大蛇の尾を斬ったとき刃が欠けてしまいました。
それで尾を裂いて見ると、尾の中に一本の神剣がありました。


スサノオは言いました。
「これは私のものにしてはいけない」そうしてこの剣はスサノオの五世孫の

天之葺根神(アメノフキネノカミ)によってこの神剣は天に捧げられました。
これは現在でいうところの草薙剣(クサナギノツルギ)です。

 

このように越の八岐大蛇の尻尾辺りから出てきたのは、草薙剣とされていますが、

この剣は元々は天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)と呼ばれていました。

 

景行天皇の皇子・日本武尊が伊勢神宮に詣でた時、

叔母の倭姫命から天叢雲剣を授かりましたが、

日本武尊が駿河の国で敵の放った野火に囲まれ窮地に陥った時に、

この剣で草を薙ぎ払い難を逃れたことから、草薙剣と命名されたとあります。

 

ところが、天叢雲は人名でもあります。

天叢雲(村雲)命は尾張氏の祖である天香具山命の息子とされています。

これは、物部氏の祭神である布津御霊剣が布津主神の名で、

『日本書紀』では建御雷神を押さえて高天原軍(倭国軍)の大将とされ、

豊芦原中津國との戦いに出雲へ向かったと云う神話と似た関係があります。

 

天叢雲剣は日本武尊によって使用され、駿河では活躍しましたが、

日本武尊は草薙剣を尾張の豪族(尾張氏)の娘・宮簀媛命(ミヤズヒメ)の元に置いた儘、

近江・伊吹山の神を鎮めに行ったため、神に敗北して命を落してしまいました。

その結果、草薙剣は現在尾張名古屋の熱田神宮に祀られていますが、

草薙剣=天叢雲剣は最初何故伊勢神宮で倭姫命の元にあったのでしょうか?

 

つまり、素戔嗚尊の子孫により高天原に齎された天叢雲剣はその後、

八咫鏡や勾玉と共に畿内大和の皇居の中に祀られていたものが、

第10代崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命が天照大神を笠縫村に祀ったとされ、

第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が天照大神を伊勢神宮に移してされています。

つまり、天叢雲剣も豊鍬入姫や倭姫により、天照大神=八咫鏡と同時に

大和の宮廷⇒笠縫村⇒伊勢神宮に移されたと考えるのが正しい考えでしょう。

 

では高天原に齎された天叢雲剣が畿内の宮中に持ち込まれたのは何時でしょうか?

畿内大和は神武天皇が日向国から東征して長脛彦命から奪い取った都です。

天叢雲剣は瓊瓊杵尊が天孫降臨した際に天照大神から授けられ、

三種の神器の八咫鏡、八尺瓊勾玉と共に、葦原中国に齎されたとされていますが、

その割に瓊瓊杵尊の子孫である神武天皇は東征時に天叢雲剣を持っていないのです。

 

神武が熊野で高倉下(天香具山命)から下されたのは、布津御霊剣とされています。

布津御霊剣は物部氏の神宝であり、現在奈良県天理市の石上神宮に祀られています。

それでは天叢雲剣の方はどのようにして、畿内大和に齎されたのでしょうか?

 

私は天叢雲剣は本当は饒速日尊の天孫降臨で畿内に降ろされたと考えています。

『先代旧事本記』によると饒速日尊は天照大神から十種の瑞宝を授かったそうです。

この瑞宝の中に八握(やつか)の剣、一つがあります。

この八握の剣とは実際は天叢雲剣ではなかったのか?

そうでなければ、天叢雲剣が高天原(北九州)から畿内に齎される機会はありません。

 

『記・紀』は天叢雲剣は瓊瓊杵尊が天孫降臨の際に授かったとしており、

ニニギの兄の饒速日尊の降臨が本来の天孫降臨であることを隠蔽しているので、

天叢雲剣の行方が、此処で一旦解らなくなっているのです。

 

『先代旧事本記』の方も『記・紀』に気を使って、

『記・紀』が天叢雲剣は瓊瓊杵尊が授かったと記すのだから、

この名を隠蔽して、饒速日尊が授かった剣を八握剣とだけ記したのでしょう。

 

 

 

 

 

 

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