沙宅(サテク)王妃 韓国ドラマ【階伯「ケベク」】より引用
2011年放映の韓国ドラマ・階伯 [ケベク] の登場人物は『日本書紀』と被っており、韓国の歴史から日本の歴史が本当かどうかを確認するチャンスなのですが、韓国文献は豊臣秀吉の朝鮮出兵で壊滅的打撃を受けており、韓国の古文献である百済三書『百済記』『百済新撰』『百済本記』は戦乱で失われてしまい、現在まで韓国に残された文献は12世紀に編纂された『三国史記』と『三国遺事』だけで、日本で8世紀に記された『古事記』『日本書紀』が残っているだけなのが最古の史書とされるよりも更に文献保存的に劣る状況なのです。
韓国ドラマ・階伯 [ケベク]が放映されていた頃、百済の義慈王と百済王子・翹岐の兄弟の母は誰なのかが、韓国でも話題となったようです。
『日本書紀』の【皇極天皇紀元年紀(AD642)】は記します。
百濟使人大仁阿曇連比羅夫、從筑紫国、乘驛馬來言、
百濟国、聞天皇崩、奉遣弔使。臣隨弔使、共到筑紫。
而臣望仕於葬。故先獨來也。然其国者、今大亂矣。
百済に遣わした使者・大仁の安曇連比羅夫が筑紫国より駅馬に乗りて来りて言う。
百済国(の王)は(倭国の)天皇が崩御したと聞き、弔使を奉じ遣わしましたので、
臣(私=比羅夫)は弔使に随行して、共に筑紫に至りました。
而るに、葬儀には間に合いそうにないので、臣は筑紫より一人で先に参りました。
ところで、その国の者(百済弔使)が言うには、今百済国は大乱となっております。
安曇連比羅夫と言えば倭の海人族の有力者であり、白村江の戦いの際にも、倭国水軍の指揮をとったとされる大将軍なのだが、この時は百済国の使者とされており、しかも海人族のくせに自分の持ち前の船に乗らず、筑紫から駅馬に乗って帰ってきたと記される処も、私がこの文章に『日本書紀』編纂部の作為を感じる所以なのである。
因みに弔使の語る百済国の大乱とは、この頃百済は新羅や唐と継続して戦闘を繰り返していたのである。しかも、のちに百済国は倭国や高句麗と組んで、【白村江の戦い】を新羅や唐を相手に起こして大敗北し、遂に歴史上から葬り去られることになるである。
二月丁亥朔戊子、遣阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣、
遣百濟弔使所、問彼消息、弔使報言、百濟国主謂臣言、
塞上恆作惡之、請付還使、天朝不許。
二月丁亥朔戊子「皇極二年(AD643)二月二日」、
阿曇山背連比良夫(あずみのやましろのむらじひらふ)、
草壁吉士磐金(くさかべのきつしのいわかね)、
倭漢書直縣(やまとのあやのふみのあたいあがた)を、
百濟の弔使の所に遣わし、彼に消息を問うと、弔使が報告するには、
百濟国主(国王は)臣(私)に言いて謂く、
塞上(さいじょう)は常に悪さばかりしているのだが、
遣使と共に百済に還して欲しいと(百済国王が)請うても、天皇は許さないだろう。
多くの歴史家はこの塞上を豊璋の如く、義慈王の息子又は弟であり、倭国の人質ではなかろうかと考えているようだが、実際にこの塞上は、何者かよく解らない人物なのです。
私の場合、塞上を宝姫(皇極天皇)の弟、軽皇子(孝徳天皇)ではないかと考えています。
もともと軽の皇子とは韓の皇子のことだからです。しかし、宝姫が百済武王の后だとしたら、その弟である塞上又は孝徳は厳密には韓(百済)の皇子ではありません。
この辺りも、私の元の設定が想像に過ぎないので、当たっているかどうかは不明です。
兎に角この時の天皇(皇極)が百済義慈王に対し、塞上を百済に返さないと言うのだから、
塞上は悪いことではなく、倭国で何か重要な役割(例えば天皇)をしていたのでしょう。
四月、蘇我蝦夷が、畝傍の家に翹岐たちを呼んで親しく互いに物語すと記されるときも、
塞上は呼ばれなかったと書いてあるから、塞上と翹岐は元々仲が悪かったのでしょう。
百濟弔使傔人等言、
去年十一月、大佐平智積卒。
又百濟使人、擲崐崘使於海裏。
今年正月、国主母薨。
又弟王子兒翹岐及其母妹女子四人、內佐平岐味、有高名之人卌餘、被放於嶋。
すると百濟弔使の供人(ともびと)らは言いました。
去年十一月、大佐平智積が死にました。
また、百濟使人は崐崘(コンロン)の使いを於海に投げ入れました。
今年正月、(百済)國主の母が薨じました(亡くなりました)。
また、弟王子兒・翹岐(キョギ)及び其母妹女子四人、內佐平岐味(ギミ)、
及び高名な人四十数人が義慈(ウイジャ)王により島流しにされました。
このように最初に、去年大佐平智積が死んだと記される割には、
智積はその後、大和朝廷の宮廷内に当たり前のように登場して、
翹岐と共に相撲見物をしていたりするのです。
このような場合、智積は倭国に亡命したことが示唆されると思います。
そして翹岐と其母妹女子四人、內佐平岐味、及び高名な人四十餘人が島流しにされたと記していますが、当時の島流しは済州島=耽羅(タンラ)島と相場が決まっていたので、
この話から舒明天皇の名が(タンラ)=(タムラ)田村皇子であることに繋がります。
此処で『三国史記』には国王の母が死んだとする記載はないので、
韓国側では亡くなった百済国主の母は誰かが分からないらしいのですが、
『日本書紀』は基本的に大和朝廷に都合よい歴史を書いていることを考えると、
この年(皇極元年)は西暦642年に当たるので、その前年(641年)に死んだのは、
百済国主の母ではなく、義慈王の父の国王である武王その人であると考えられます。
また、実際に三人の弔使を百済に遣わしているのは、倭国の方なので、
やはり王が死んだのは百済の武王であり、倭国の舒明天皇ではなかったようです。
『日本書紀』はこの時、まともに百済国主・義慈王の父の武王が死んだと書くと、
百済武王が舒明天皇と同一人物であることがばれてしまうことを恐れて、
(百済国の)国主の母が死んだと書いたのでしょう。
韓国の歴史家はまさか『日本書紀』にウソが書いてあるとは思わないから訳も分からず、
この時死んだ義慈王の母とは誰なのだ?と混乱してしまっているのです。
武王の后に関しては、『三国史記』には記載されていないようだが、
『三国遺事』の武王の条項には、いわゆる「薯童謠(ソドンヨ)説話」として、
善花(ソンファ)公主(皇后)が、登場します。
その童謡によると、善花(ソンファ)姫(公主)は新羅の真平王の三女であり、
第27代の新羅王・善徳(ソンドク)女王の妹とされているのです。
韓国ドラマ・階伯 [ケベク] の脚本を信じた場合、
善花(ソンファ)皇后は、のちに国王となった義慈(ウイジャ)王を生むと、
義慈王が幼い頃に殺されたことになっているが、
実際晩年の武王には、沙宅(サテク)王妃と云う后が居たわけだから、当時一夫一婦制だった百済では善花(ソンファ)皇后は、遅くともそれ迄の間に亡くなっていたようです。
沙宅(サテク)王妃の方は武王の死後も長く生き続けており、こちらは階伯 [ケベク] の言うように、翹岐(キョギ)の母と考えられます。そうなると武王の死後、
翹岐と共に済州島に流されたのも沙宅(サテク)王妃なのでしょう。
沙宅(サテク)王妃は夫の武王が死ぬと、後ろ盾を失い、
善花(ソンファ)公主の子であった義慈王に自分の実母ではないとして疎まれ、
善花(ソンファ)公主の息子の翹岐(キョギ)や娘らと共に追放されたのでしょう。
ところが、沙宅(サテク)王妃は翹岐(キョギ)と共に、安曇連比羅夫の援助を得て、
倭国に亡命し、王都・飛鳥朝に定着すると、翹岐(キョギ)と智積は急に、
『日本書紀』から姿を消し、その後、皇極天皇や中大兄皇子の名前で登場するのです。
因みに百済の薬師寺を建てたのは、『三国遺事』では善花公主とされているが、
つい最近(2009年)に韓国にある弥勒寺の仏塔から金の板が見つかり、
弥勒寺建立の由来を示す文字が刻まれており、考古学的大発見となりました。
その板には、
我百濟王后佐平沙乇積女種善因於曠劫受勝報於今生撫育萬民棟梁三寶
故能謹捨淨財造立伽藍以己亥年正月卄九日奉迎舍利
我は百済王后で佐平沙乇積(サテクチョクトク)の娘である。生涯を通じて善行を広め、
現世で受けたカルマ(業)により民衆を導き、仏法の教えをよく擁護し、
その浄財で寺院を建立し、639年正月29日にこの仏舎利を奉納した。
と記してあります。
つまり、百済の弥勒寺を建てたのは、文献にある、善花(ソンファ)公主ではなくて、
実際には沙宅(サテク)王妃だったことが、考古学的に証明されたのであります。
韓国ドラマ階伯 [ケベク]で騙られる沙宅(サテク)王妃の人物像は、
すごく賢明ながらも冷徹、冷情な人物。
また百済人が百済王の伝統性を引き続かなければならないと思う百済純血主義者だ。
このために武王と新羅人・善花(ソンファ)皇后との間に生まれた義慈が王位に上がるのを、
口を極めて反対し、自分と武王の間に生まれた翹岐(キョギ)を王位に即位させようとした。
と書かれている位の女性だから、権力欲が相当強かったものと思われる。
つまり、沙宅(サテク)王妃が倭国で皇極・斉明天皇とされたことは十分に考えられます。
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