黥面文身

 

日本の歴史書『古事記』『日本書紀』には倭の海人族が登場する。

 

倭の海人族、それは古代日本の歴史を作ってきた人々。

 

倭人は縄文の昔から元々が漁労民でしたが弥生時代に入ると、

中国江南地方の水辺に暮らす民が渡来し、中国の先進文化を取り入れて、

遠距離を舟で往来する海の民、即ち倭の海人族となりました。

 

彼らには綿積三神を信奉する「安曇(あずみ)族」、

筒男三神を信奉する「住吉・墨好・澄良(すみよし)族」、

宗像三女神を信奉する「宗像・胸肩(むなかた)族」などが居まして、

部族によりそれぞれ体や顔に特徴のある入墨していました。

 

それを『魏志倭人伝』では、黥面文身と評しています。

 

黥面文身とは例えば、安曇族の安曇目(黥ける利目)

宗像(胸肩)族の胸から肩にかけての入墨、

緒方(尾型)族=(三輪族)のお尻の入れ墨などがあります。

 

彼らは『古事記』『日本書紀』に個別に登場します。

 

そのうち二つの海人族は、伊弉諾命が黄泉の国から帰還した後で、

筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて、禊ぎ祓ひたまひし時、

水の底で体を洗ったときに生まれた神が、

底津綿津見神と底筒之男の命、

水の中ほどで体を洗ったときに生まれた神が、

中津綿津見神と中筒之男の命、

水の上の方で体を洗った時に生まれた神が、

上津綿津見神と上津筒之男の命、とされている。

 

それに対し、伊弉諾命の息子と娘である、

須佐之男命と天照大御神が誓約を行った時に、生まれた神が、

田心(たごり)姫(沖津島姫)、湍津(たぎつ)姫(中津島姫)、

市杵島(いちきしま)姫(辺津島姫)の宗像三女神である。

 

 

宗像海人族の秋祭り みあれ祭

 

宗像海人族は後の世で、首長・徳善の娘尼子(海人娘)の君が

大海皇子(天武天皇)の妻になる。

尼子君は天武天皇の皇后である鸕野讚良(持統天皇)よりも先の妃であり、

大海人皇子が海人族に縁のある人物であることを現している。

因みに私は、大海人皇子の本名は

高句麗使になった津守連大海ではないかと考えている。

 

安曇族の方は首領だった安曇連比羅夫が百済大使となり、

百済皇子の翹岐(中大兄皇子)や百済大佐平智積(中臣鎌足)を、

大和朝廷に取り込むことに成功し、大和政権を奪取したが、

百済を唐の侵略から救うために白村江の戦いに突入し、

結果大敗北を来したために、一転して唐から逃げ回ることになり、

飛騨山脈の奥地に逃げ込んで、安曇野の地に隠れ住むも、

次第に大和朝廷での力を失っていく。

 

 

 

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