橿原神宮に展示される神武天皇像
神武天皇=彦穂穂出見命が東征軍を率いて畿内に攻め込んだ最後に、
『古事記』では饒速日命が登場し、物部一族を従え神武に帰順したとされており、
畿内軍の大将・長脛彦命=登美毘古はどうなったのか記されていないが、
『日本書紀』では饒速日命が、長脛彦命を刺殺したと記されており、
『先代旧事本紀』では饒速日命の息子である、
宇麻志麻遅(ウマシマジ)命が長脛彦命を刺殺したと記されています。
『先代旧事本記』で饒速日命は畿内に降臨後、子が生まれる前に亡くなったとされるので、
もしそれが本当なら、神武東征時には饒速日命は既に死んでいたはずです。
つまり、饒速日命が神武の前に饒速日命が現れることは出来ないので、
『古事記』『日本書紀』共に嘘が書かれていることになり、
この時現れたのは息子ウマシマジ命と記す『先代旧事本記』が正しいのである。
私は饒速日命と天若日子は同一人物と考えています、
即ち、天若日子=饒速日命は畿内に降臨後、『記・紀』の記すように、
高皇産霊神の返し矢で死んだとは思えないのだが、
降臨後の早い時期に何かのアクシデントで死んだのであろう。
私は本当は饒速日命は味鋤高彦根命に殺されたのではないかと考えている。
その理由として『記・紀』には、味鋤高彦根命は、
天若日子に似ていると云われて激怒したと書いてあること、
及び、味鋤高彦根命が天若日子の喪屋を蹴飛ばして破壊した話に、
秘められているのではないかと疑っているのである。
しかも『古事記』『日本書紀」共に、
饒速日命が本来の天照大神の後継者である話を隠蔽しているのだが、
『記・紀』としては、初代天皇が神武であることを主張する為に、
饒速日命と宇麻志麻遅(ウマシマジ)命親子の話を隠蔽したのであろう。
つまり、神武が畿内に攻め込んで、長脛彦命=味鋤高彦根命を殺し、
宇麻志麻遅(ウマシマジ)命が神武の軍門に下ったと云うことは、
神武がそれまで畿内を治めていたウマシマジ命と長脛彦命から、
神武が大王=初代天皇の座を奪ったと云うことになるのである。
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