徳川家康(戦国時代を終わらせた戦国武将)

これから10年かけて家康の人生を書いてみようと思います。できるだけ史実に基づいて(もっとも大部分は想像に頼らざるを得ないでしょうが)書いていきたいと思います。皆様のコメント大歓迎です!(それがブログ形態にする第一の理由です!)

1.三河の松平家

安土桃山時代、応仁の乱から続いた戦国時代の末期における戦国武将と言えば、織田信長や豊臣秀吉、または武田信玄や上杉謙信等が思い浮かばれる。このような質問に対し、まず第一に徳川家康の名前を想起する人は、多数ではないであろう。徳川家康には、忍耐強いとか、律義者だとか、または逆に「狸親父」という言葉に代表されるような裏表のある人物といったイメージがあるが、戦国時代に華々しく活躍した武将という印象は持たれにくい。

 

もっとも、それは真実であろうか。筆者が家康に興味を持つのは、彼が戦国の時代を終結させ、その後の三百年の平和を築いた人物であるという点にも由来するが、彼こそが「戦国」を体現した武将ではないかと思うことによる。彼は、三河の土着勢力の長男として生を受けるも、幼児期において母は父に離縁され、人質に出され、しかも誘拐され、祖父・父は家臣に殺され、自らの主家の棟梁は奇襲で討たれ、その主家を裏切る一方で自身も家臣に裏切られ、時には勝ち目のない戦をし、自らの手で妻子を殺し、天下への野望を見せるも断念し、最後には日本を二分する戦を巻き起こした上で勝利し、征夷大将軍に就任する。彼は、まさに下克上を体現した戦国武将ではないか。

 

家康は、今の愛知県東部に所在する三河国の松平家という土着の豪族の長男として生を受けている。その父は松平広忠、その母は於大の方という。松平家の源流は正確には明らかではない。足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、南北朝間で多数の戦が行われた際、三河国は、京都と鎌倉の間にある国として、多数の戦に巻き込まれた。そのため、土着の農民達は、戦の難を逃れるべく、武人・知識人を必要としていた。一説には、その頃に三河国の松平郷に流れ着いた武人が松平家の源流であると言われている。名を松平親氏という。源氏を祖とする新田氏の出自であるとする資料もあるが、おそらくは自称に過ぎず、この時代における多くの場合と同じく詐称であろう。ともかく彼は、その武力または知識を買われて松平郷に居着き、郷の長の娘を娶って、そのまま郷の長のようになった。その後、応仁の乱が起こり、日本は戦国時代に入っていった。戦国時代において松平家はだんだんとその勢力圏を広め、親氏の没後から約120年間を経て、松平家は、家康の祖父の代、すなわち松平清康の代にその高みを見せる。清康は、10代の半ばに至る前に松平家の家督を相続し、次々と三河の周辺豪族を下し、または味方につけ、家督相続後わずか10年で三河を統一し、20代の半ばには尾張国の織田領に「1万」の兵をもって侵攻するまでになっている。この「1万」という数字がどこまでの誇張を含むかはさておき、後に東海一の綱取りと言われ駿河、遠江および三河までを勢力下においた今川義元による織田領への遠征が「2万」の兵であったことからしても、清康の時代における松平家の勢力が三河で如何に大きなものであったかが推測される。

 

しかし、清康は、その1万の兵を動員した尾張への遠征の陣中において、家臣から突然切られ亡くなっている(1535年、森山崩れという)。清康を切ったその家臣も即座にその場で刺殺されていることから、当該家臣の動機ははっきりとしない。侵攻対象となった地域の領主であった織田信秀による謀略であるという説や、松平家の主権を欲した清康の叔父である松平信定による謀略であるという説、あるいは私怨であったという説もある。おそらくその全てであろう。森山崩れの後、松平信定は、清康の後を継いだ清康の長男の松平広忠を三河から追い出し、自らの長男に織田信秀の娘を貰う等して織田家との親交を強めている。このような事後の経緯から想像するに、松平信定および織田信秀が結託して、清康に対して私怨のあった家臣に対して何か吹き込み、清康を襲わせたのではないであろうか。

 

いずれにしても、松平郷への土着から120年で急激に拡大した松平家は、家臣による裏切りという形で衰退を見せる。尾張への侵攻途上で主君を失った松平軍は、清康の死後、即座に陣を畳み、三河に戻った。清康に代わり家を継いだのは、まだ齢10歳に過ぎない清康の長男である松平広忠であった。しかし当時の松平家の情勢、および戦国時代の機運は、まだ幼い子供に過ぎない広忠にとって厳しいものであった。外部においては、森山崩れの後、織田家が三河への圧力を強めた。また内部では、広忠にとって大叔父にあたる松平信定がその勢力を拡大し、広忠への圧力を強め、松平家の主権を奪るべく広忠の殺害する気運すら見せた。結果として、広忠は大叔父に対抗することができず、家督を継いでからわずか2年後の12歳で三河を出て伊勢に逃れる。このように三河を簒奪した松平信定であるが、織田家と手を結ぶも、三河の統治は上手くいかず、家臣の不満も強く、松平家は次第に三河における勢力を弱めていった。結果、広忠の伊勢への逃亡からわずか3年で、松平家の一部の家臣は信定に代わる頭首として広忠の帰還を望んだ。森山崩れから5年後、広忠が15歳の1540年のことである。