群馬県沼田市に、生方鼎齋(ていさい)さんという、
1799年生まれの、書にたけた方がいて、
1799年生まれの、書にたけた方がいて、
優れた書家になってからは、
女性に飽きっぽいのか、
大間々でも、月夜野でも、
娘の婿に迎えられは離縁する。
女性に飽きっぽいのか、
大間々でも、月夜野でも、
娘の婿に迎えられは離縁する。
江戸に出てからは絵にも通じ描いたのは、
欄竹梅菊の水墨画・四君子。
欄竹梅菊の水墨画・四君子。
その方が描いたのかわからないのですが、
龍の絵。
襖を表装に出した時、見つかった下張りは、
ぎっしりと漢字ばかり。
ぎっしりと漢字ばかり。
江戸後期の襖の秘密が、後年になって知ると、
当たらなくても、想像が膨らんできて、
小躍りしてしまいます。
当たらなくても、想像が膨らんできて、
小躍りしてしまいます。
👇生方鼎齋さんではないのです・・ね‼
本堂台間の天井には
狩野法橋水春源義信さん・う~ん・の龍が
狩野法橋水春源義信さん・う~ん・の龍が
泰寧寺本堂には、
群馬県花輪村で生まれた、
高瀬忠七さんと繁八さんの彫刻が3点、
外陣欄間に・・1804年の作。
外陣欄間に・・1804年の作。
関口文次郎さんの兄弟弟子の、
高瀬万之助さんの子らで、彫り物師。
高瀬万之助さんの子らで、彫り物師。
👇中国伝説上の巣父許由をモチーフに。
♪1688年絵本宝鑑から♬
👇観瀑の図
内縁の欄間には、
平成の彫り物師の作が・。
桃山時代・江戸時代・平成と彫刻で時の証を残して
泰寧寺はこれから100年、200年と・・
泰寧寺はこれから100年、200年と・・
高瀬忠七さんを記事にしてます
見て頂きたいと思ってます
見て頂きたいと思ってます
群馬県のことに詳しいとよ様、何も知らない私の中で今日も貴重な素晴らしいお寺と、彫刻と、立派な彫師のことを知ることが出来ました。
昔の人は筆で書いていましたね。そこに奥深い
彫刻・素晴らしいです。
長い間、お寺を守り存続していることも素晴らしい。
上州の厳しい風にも耐えて、人も技術も凄いと思いました。とよ様の写真が凄い事もありますが。
それぞれの彫刻から時代の流れが見えてきて、
一つ一つの貴重な写真に感じるものがあって
厳かなひと時の中にいます。有難うございます。
一人の彫り師を知らなければ、
めったに訪れることも無い群馬県でした。
兎に角、通い続けました。
そのことが群馬県を俯瞰させたようです。
何百年ごとの彫刻を見れた泰寧寺は、山登りをキャンセルして訪れた甲斐がありました。
貴重な資料になります。
貴重な記事を読んでいただいて感謝です。
ややもすれば見過ごされる、彫師たちの人間像、
気候に触れ、時代を描いて、足跡を見つける、
彼らをクローズアップして、私にない何かを、
心に埋めているのかもしれません。
そんな ♬ 11月のある日 ♪ です
細部までくっきりと見ることが出来る。
ますます、感激!
生き様まで伝わって来るような
見事な作品群でした。
ありがとうございました!
現実にない自然を描いて、見る人の足を停めてしまえば、見る人は走馬灯のように想像を働かせることでしょう。
やはり成功の絵です。
何時でしたか?
画風を変えることが出来るかと思ったのは・・・
お見事です。
画風を変えることなく、鯉さんの発想力の豊かさでしょうか・・‼
泰寧寺の彫刻も拝見させていただき、群馬にたくさんの彫刻が残されているのにも驚きです。
高瀬忠七さんの記事も拝読しました。
高瀬一族は北群馬で大変活躍されていたのですね。
その時代と共に彫刻も変わり、守り受け継いで行く人々の想いが伝わってまいります。
今まで数多くの「風神雷神」を観ましたが、「親子の風神雷神」は初めてです。
関 清雅さんの、子々孫々まで想いを残して行こうという意もあるのでしょうね・・・
襖絵の修理で文字が書かれた和紙が貼られているのは良く有りますね。
和紙の強さと大切さを昔の人は良く知っていたのでしょう。
かな書道を学んだ頃良い紙を選びたいばかりで、和紙をもっと大切にしていなかった自分にいつも恥じ入ります。
子持山の風景も懐かしく、吾妻川の流れと共に平和が永遠に続く事を願っております。
群馬県にある社寺の彫刻は、鳥居をくぐれば、
山門を見上げれば手の込んだ装飾と・・
野にある祠を別にすれば、ほとんどの社寺には施されているようですね。
そんな中の泰寧寺には、彫り物の変遷が拝観出来て、
感慨もひとしおでした。