以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによってはグチャグチャになるので、図表を画像に変更していっています。誤打(あるある!)の訂正や文章の見直しもしています。ドイツでもウクライナからの難民は20万人を超えました。私の住んでいる町でも7000人ほどの難民を受け入れたそうです。一刻も早い戦争の終結を願います。

内容はこの記事と同じです。

 ポーランド語で「本」を księga(クションガ)と言うと知って驚いた。これはロシア語の книга (kniga、クニーガ)にあたるはず。この語の語源自体はどうも印欧語起源ではないようだが、南スラブ語のクロアチア語でも knjiga(クニーガ)だし、確かバルト語のリトアニア語も kniga だったはずだ(多分スラブ語からの借用だろう)。下ソルブ語か上ソルブ語かわからないが、とにかくソルブ語では kniha。つまりポーランド語は他のスラブ語の n を s で対応させているわけか。

 一瞬ギョッとする音韻対応というのは結構見かけるが、これは初耳だ。
 例えばケルト諸語をいわゆる p- ケルトと q- ケルトのグループに分ける p 対 k の音韻対立など最初ワケがわからなかった。「4」を古アイルランド語では cethir と k で発音したが、古ウェールズ語では petquar、ブルトン語では pevar で、この k と p は昔同じ音だったのだ。k と p が同じ音だったなんて馬鹿なことがあるか、全然違う音じゃないかと思ったら、この元の音というのが唇の丸めを伴う k、「くゎ」だったのだそうで、「4」はもと *kwetwer-(または *kwetur, *kwetṛ)。q- ケルトグループではこの唇の丸めがとれて単なる k になってしまったのに対し、p- ケルトでは唇の丸めのほうがどんどん強化されてついに調音点そのものが唇にうつってしまったというわけだ。完全につじつまが取れているのでまた驚いた。
 またアルバニア語をゲグ方言とトスク方言という2大グループに分ける r 対 n という対立もある。アルバニア語の祖語で *-n だった音がゲグ方言では -n のまま残った一方、アルバニア語の標準語となったトスク方言ではロータシズムを起こして -r となった。で、トスク方言の emër(名前)、dimër(冬)はゲグ方言ではそれぞれ êmën と dimën

 n 対 s というのも相当なツワ者ではなかろうか。
 他の印欧語内でこういう音韻対立がみられる言語はあるのかどうかちょっと調べて見たのだが、どの本を見ても「印欧語の n は非常に安定した音であり、大抵の言語でそのまま保たれている」とある。保たれていないではないか。
 さらにこれが「本」だけの現象でない証拠に、ロシア語の князь(knjaz'、クニャージ、「公爵」)、さらにその語源のスラブ祖語 kъnędzь に対応するポーランド語もしっかり ksiądz(司祭)と s が現れている。 
  ちなみにこのポーランド語の ksiądz はロシア語で ксёндз(ksendz)という語として借用され、「カトリック神父」の意味で使われている。つまりロシア語には元々 kъnędzь という同一言語から発生した語に対して東スラブ語経由と西スラブ語経由の二単語が並存しているのだ。『5.類似言語の恐怖』の項で述べたポーランド語の miasto、mejsce と同じような感じである。
 さらに聞いて驚くなという話になるが、 「巣」、ロシア語の гнездо(gnezdo)は私の計算としてはポーランド語では gzązdo になるはずなのに(ですよね?先行する子音が有声だから同化を起こして s に対応する有声子音、つまり z になるはず)実際に現れる形は素直に gniezdo で、なぜか n がしっかり保たれている。ここの音声環境の違いは先行する子音が [+ voiced] か [- voiced] かだけだ。

 なぜだ。

 そして実はポーランド語もその他のところでは「印欧語の n は安定している」の原則を保持している。ロシア語の н (n) とポーランド語の n が対応しているのが見えるだろう。
Tabelle-39
面白いことに zginać の完了体動詞は zgiąć で、鼻音子音 n 自体は消失して [+ nasal] という素性を後続母音に残している。ą は鼻母音だ。この z は本来接頭辞だから、zgiąć は形としてはむしろロシア語の согнуть の方に対応しているのだろうか。さらに ą は [a] でなく [ɔ] の鼻音だから、ロシア語の u 対古教会スラブ語の õ、例えば мудрость (ロシア語、「賢さ」) 対  mõdrosti (古教会スラブ語、「賢さ」) の対応と完全に平行している(『38.トム・プライスの死』参照)。

 ついでに「雪」は

снег (ロシア語) - śnieg (ポーランド語)

だから、ポーランド語で [n] は先行子音の上に同化現象を誘発して s を [+ palatal] とさせ、ś に変化させているわけだ。

 本来ことほど左様に力の強い鼻音歯茎閉鎖音が kn の時に限って、しかもポーランド語に限って ks となるのは何故なのだろうか? 気になって仕方がなかったのでポーランド語の音韻に関する本を借りてきて見た。Zdzisław Stieber という人の "A historical phonology of the Polish language" という本で、1973にハイデルベルクで出版されたものだが、モロ命中したのでちょっと紹介させてほしい。ここの50~51ページに次のような説明がある。 時々字の上についている「'」という印はその音が口蓋化されている、という意味でわざとついているのであって印刷のシミなどではない。

1.12世紀か13世紀にかけて古ポーランド語で kn' が kś に変化した。ただし *kъnęzь 及び *kъnęga の2単語に限られる。kъnęga(古教会スラブ語では kъn'iga)の ę が鼻母音になっているのはおそらく kъnęzь からの類推。 

2.1204年にトシェブニッツァ(Trzebnica、ドイツ語では Trebnitz、トレブニッツ)で書かれた文書ではまだ Knegnich という地名が見える(現代ポーランド語では Księgnica)。

3.1232年の資料では Cnegkenits と記録されていた地名が1234年には Gzenze、1298年には Xenze、1325から27年にも Xenze。これは現ポーランドの Książ Wielki である。

4.この音韻推移は古カシューブ語も被っていたことが、ksic(神父)という語に認められる(その単数属格形は ksëza で、ポーランド語の ę との対応がカシューブ語に特徴的)。

5.ポーランド語、カシューブ語以外では kn' → kś という音韻推移は確認されていない。

6.一方ポーランド語内部でさえもこの推移が完全には浸透しなかったことが、1953年の「古ポーランド語辞典」に knieja(森の一部)、kniat(マリーゴールドの一種)などの語が報告されていることからもわかる。前者は14世紀の終わり、後者は15世紀に記録されたものである。

7.カシューブ語の方も knižka,、knëg、knéga、 kniga という形が最近になるまで残っていた。

8.kn' が kś に代わった原因は無声音 k の後で n' が無声化し、それに伴って音価が弱まったためであろう。ポーランド語では無声の r、m (m')、n、n'、l、l' は発音が弱まるからである。

 1で述べられている「司祭」と「本」の2例を全く人の手を借りずに最初から自分で思いついた私はひょっとして言語学のセンスがあるのではないかと一瞬思いそうになったが、せっかくその例を思いついておきながらこれを単純にも n 対 s という音韻推移だと解釈したことで、そもそものスタートからハズれていたことがわかり、むしろ才能がないことが暴露された感じ。これは n 対 s の対応ではなくて  kn'  対 ks'、つまり口蓋化された n から口蓋化された s への推移だったのだ。もしこれが口蓋化されていない普通の n だったらこの推移は起こらなかったかもしれない。というのは(才能もないくせに)そこで唐突に思いついたことがあるのだ。ロシア語ではドイツ語と同じく語末の有声子音は無声となるが、時々ソナントの r まで無声化するのを聞いたことがある。しかし気を付けてみると無声化するのはもっぱら口蓋化された r、つまり рь で「普通の」 r はしない。試しに自分で発音してみると царь 「皇帝」の рь は楽勝で無声化発音できるが、директор「支配人」だとできない。口蓋化音は無声になりやすいのかもしれない。
 この本の著者は8で私が上でわからないわからないと大仰に騒ぎ立てた gniezdo の謎も一発で説明してくれていて、やはり専門家は違うと脱帽したのだが、それによるとポーランド語では非口蓋のソナントまで無声化するらしい。言語事実は私の発音能力を完全に凌駕している。語末の r 以外の無声のソナントというのはちょっと想像を絶する(どうやって発音するんだ?)。脱帽するのはポーランド語という言語そのものにもだ。


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