前回の続きです)

 完了体アスペクトにはこの「新しい状況の出現」の他に temporal definiteness「時間的に(あるいは時間軸に)固定されている」(『95.シェーン、カムバック!』参照)という要素がある。Dickey という学者が強調していたそうだが、ちょっとDickey を離れてこちらで勝手にこの「時間軸に固定」という観念をいじってみよう。私はこれは R(eference time) の位置がはっきりしているという意味に解釈できると思う。前の例を繰り返すが、

太郎は結婚した。E (= R) < S
太郎は結婚している。E < R = S

では、単純過去で Reference time が括弧に入っている。つまり明示されていない、いろいろな解釈を許すということで、要は「特に固定されていない」、言い換えると definite の反対で temporally indefinite なのではないだろうか。ロシア語不完了体と同じだ。「~ている」の方はReference time がはっきりしていて、ロシア語完了体に対応する。
 これも前に名前を出したイサチェンコはロシア語の完了体・不完了体の差を次のように説明している:不完了体動詞では話者の視点が当該事象のただ中にあるから、始まりも見えなければ終わりも見えない。それに対して完了体動詞では話者は当該事象を外からみているから始まりも終わりも、そしてその事象が今どういう過程にあるのかもよく見える。イサチェンコはさらにこれを何かのパレードに譬えて、不完了体はパレードに参加して行進している人の視点だが(だから全体が見えない)、完了体ではパレードを観客席から観察しているようなもので、全体が見渡せる。行進の始まりも終わりも見えるし、次の行進、前の行進も見える、と描写している。それを図示してくれているのでさらにわかりやすいが、ちょっとそのイサチェンコの図示をさらにこちらで解釈してみよう。

イサチェンコの図
Isachenko
事象の外に出ている視点というのを R と解釈して時間軸の上に置いてみるとこうなる。どうも稚拙な図ですみません。
perfekt-iperfekt
不完了体ではRが事象の内部にあるから、その脇を通る時間軸と結びつきようがなく、軸に固定できない。これが temporally indefinite である。完了体は R を錨にして当該事象が軸に結わえ付けられるからtemporally definiteとなる。つまりライヘンバッハ、ディッキー、イサチェンコは実は同じことを互いに独立に主張しているのではないだろうか。

 この完了体アスペクトはある意味わかりやすく、ロシア語、日本語、英語間で(ドイツ語では先にも述べたようにアスペクトの観念がないがしろにされているからボツ)共通する部分が多いが、現在進行体アスペクトが問題だ。日本語では普通は継続動詞に「~ている」をつけて作る。完了体形成と同じ助動詞なのでややこしい。

田中さんは今本を読んでいる。

わかりやすい Mr. Tanaka is reading a book now である。ロシア語ではこういう場合、不完了体動詞を使う。

Он сейчас читает книгу.
he + now + read-不完了体・現在 + book
今彼は本を読んでいる。

しかしよく見てみると瞬間動詞も現在進行体アスペクトになりうることがわかる。寺村氏も似たような例を挙げているが、同じ行為が繰り返される場合である。

毎日何万人もの人が戦争で死んでいる。

複数の主語が次々に死んでいく場合で、一人一人は死ぬのが一回きりで「完了」したとしても「死ぬ」という事象自体は繰り返される。ロシア語でもこういう場合「死ぬ」の不完了体バージョン умирать を使う。

В мире каждый день умирает приблизительно 150 000 человек.
in + world + every +  day + dies.不完了体 + about + 150000 + man
世界で毎日およそ十万五千人の人が死んでいる。

ここで動詞が умирает と単数三人称 になっているのは、名詞に5以上の数詞がかかると動詞が中性単数になるというロシア語の決まりのためである。事実上は主語は複数だ。この умирать は「ただいま死亡中」という意味にはならない。日本語の「田中さんは死んでいる」も「田中さんは故人」という解釈しかできない。そこを何とかと言われればいろいろ補助をくっつけて「田中さんは今死んでいっている」など無理やり現在進行体アスペクトに出来ないことはないが、ちょっと無理がある表現ではないだろうか。

 ここまでで結論すれば日本語の「~ている」はロシア語の完了体と不完了体どちらの意味も表現することができる、いわば一粒で二度おいしい(古い昭和ギャグを出すな)機能を持っているように見えるがちょっと考えてみよう。次の文だがロシア語だったらどちらも不完了体動詞の管轄で下手をすると同じセンテンスになってしまう。

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています
田中さんは日曜日にロシア語を勉強します。

 Он изучает русский язык по воскресеньям.
he + learns/ is learning + Russian + language + during + Sundays
彼は日曜日にロシア語を勉強します/しています。

さらに既出の文

В мире каждый день умирает приблизительно 150 000 человек.

も、日本語では実は二通りに訳せる。

世界で毎日およそ十万五千人の人が死んでいる。(上記)
世界で毎日およそ十万五千人の人が死ぬ。

もちろんロシア語でもやろうと思えば文のシンタクス構造を変えたり別の単語を使ってこの違いを表わすことはできるが日本語のようにストレートにはいかない。そもそもこの違いはどこにあるのか?前者は繰り返し、後者は一般的な事実、というか習慣だ。では「繰り返し」と「習慣」の違いは何か?私は前者が時間軸に結びついている、temporally definite であるのに対し、後者は時間軸上に接点がない、temporally indefinite なのだと解釈している。

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています。→ E = R = S
田中さんは日曜日にロシア語を勉強します。→ E = S

前者は明らかに具体性が高い。会話が行われている現時点で田中さんが実際にロシア語の学習を繰り返している、つまり definiteness をはっきりと感じる。後者にはそれがない。むしろ田中さんという人の人物描写で、汎時間的とでも言おうか。言い換えると日本語の「田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています」や英語の Mr. Tanaka is reading a book とロシア語のそれぞれ Господин Танака изучает русский язык по воскресеньям あるいは Господин Танака читает книгу はアスペクト的にイコールではない

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています → E = R = S
Господин Танака изучает русский язык по воскресеньям  → E = S

Mr. Tanaka is reading a book  → E = R = S
Господин Танака читает книгу → E = S

ロシア語は E = R = S を表わすことができないのだ。だから不完了体 E (= R) = Sで暗に示すしかない。しかしこれはあくまで代用である。では不完了体がダメなら完了体の現在形を使えばいいのではと思うとこれが無理。なぜなら完了体には現在形が存在しないからである。たとえば不完了体の現在形

Он читает кнгу.

完了体

Он прочитает книгу.

では動詞の変化形パラダイムが同じなので(下線部参照)完了体も現在形のような気がするが、実はこれは未来形で「彼は読むだろう、今から読む」だ。つまり下のようなパラダイムになる(三人称単数のみ表示)。
Tabelle-elsas183
現在形がないから R が時間軸に結びついた「~ている」をストレートに表わせない。RがEに先行するか後続するなら大丈夫だが、E = Rだけはできないのだ。

過去
Он прочитал книгу.  E <  R = S
彼は本を読んだ/その本を読んでいる。

未来
Он прочитает книгу. (上述)E > R = S
彼は本を読むところだ。読もうとしている。

私はこのことにまさにこのブログ記事を書いていて気付いたのだが自分でも驚いた。

 逆にロシア語ではストレートに表わせるが日本語ではいろいろ芸を施さないと表わせないアスペクトニュアンスというのもある。前回の記事で日本語の「た」には単純過去と完了体アスペクトの両方の機能があると書いたが、「両方できる」ということはつまり形の上ではキッチリ分けられていないということだ。現日本語の「た」は古い日本語ではそれぞれアスペクトの違いを表わしていた複数の助詞「たり」「つ」「ぬ」「り」などが消滅してその機能を一身に請け負わされる羽目に陥ったわけだから、もともとの助詞がそれぞれ持っていたアスペクトの意味がおんぶお化けというか背後霊のように付着しているのはある意味当然と言える。
 ロシア語では過去に起こった繰り返し事象を完了体でも不完了体でも表わせるが、両者間には明確にニュアンス、つまりアスペクトの違いがある。日本語ではこれらの差が非常にあいまい、というより表わすことができない。

Ученик написал трудное слово несколько раз, чтобы запомнить его.
pupil + wrote-完了体 + difficult + word + several + times, + so that + to remember + it
覚えるために生徒は難しい単語を何回も書いた

Я несколько раз писал ему, чтобы он прислал фотографию своих детей.
I + several + times + wrote-不完了体 + to him, + so that + he + send + picture + of his + children
私はお子さんたちの写真を送ってくれるよう彼に何回か手紙を書いた

前者が完了体、後者が不完了体で、ロシア人は明確にこれらの文脈で完了・不完了を使い分けるが、日本語ではどちらも「書いた」である。前者は完了体なのだからといって「~ている」を入れて「生徒は…書いている」とすると不自然な文になってしまう。同じ繰り返しでも前者はその繰り返しの総体があるまとまりを持った一つの事象だ。「単語を覚えた」という新しい事態も出現している。対して後者は相手が写真を送ってくれたかどうかは問わず、とにかくこちらが何回か手紙を出したという繰り返しの事実を描写しているに過ぎない。前者で不完了体を使い、後者を完了体にするとロシア人は違和感を感ずるのだ。この繊細なアスペクト感覚には日本人もドイツ人も対抗できまい。さらにこういう例もある。

Он перечитал письмо несколько раз.
he + read through完了体 + letter + several + times
彼は手紙を何回も読み通した

Я перечитывал роман «Война и мир».
I + read through不完了体 + novel + „War and Peace“
私は小説「戦争と平和」を何回か読み通した

ここでも前者は繰り返しの総体が一つの事象というニュアンスだ。事象は一応終了して話者は手紙の内容が飲み込めた。後者はタイムスパンには触れられていない。今後もまた「戦争と平和」を読むかもしれない。とにかくなぜここでは完了体または不完了体になっているのかを後から説明して貰えればまあわからないこともないが、ロシア語作文などでこちらが自分でこの違いを表現し分けろと言われたら非母語者にはお手上げだ。

 お手上げだから撤退して日本語の「~ている」に戻るが、これの機能はロシア語のようにアスペクトを表わすというよりアスペクトを「強調すること」にあるのではないだろうか。それについてまた寺村氏が鋭い指摘をしている。

葛西善蔵は芥川自殺の翌年、昭和3年7月に死んでいる

という文の「~ている」は「この金魚は死んでいる」という単純な現状説明ではなく、過去の事実を今改めて確認し、現在の文脈の中でその意義を問う「回想的用法」であるとしている。EとRとの間に距離感がある。この距離感は「~ている」の持つ「アスペクト強調機能」からの派生ではないだろうか。

 前項の最初で述べた日本語のアスペクトというテーマのそもそもの出だしに戻るが、私の今までしていた大雑把な説明、「~ている」は完了体と現在進行体という正反対のアスペクトを表わす、つまり同じ形式が正反対の意味を持つという説明の仕方を実は著書の中で寺村氏に叱られたので反省のあまりこんな記事を2回にもわたって書いてしまったのであった:寺村氏はある形式にこのようにいろいろな意味があるとただ列挙するだけでは文法的な説明とはいえない、問題は多義にわたる用法、異なる意味をどう統一的に説明するかということだと言っている。いやしくも同じ形で表わされているのだから共通する意味の核があるはずだ、それを見つけないでただこの形式にはあれこれの意味がありますとゴチャゴチャ並べて終わりにするのは素人だということだ。そう言われてガーンと来たので、必死にここで私なりに考えてみて出た結論は、「~ている」には Reference time を可視化し、さらにそれを強調する機能があるということである。進行体だの完了体だのはそこから派生されて来た二次的な機能だ。
 アスペクトの強調という機能は「~てしまう」という助動詞も持っているが、こちらの方が強調の度合いが強い。さらに「~ている」と違って「~てしまう」は単にRの存在を可視化するのではなくて、さらにS < R を強調する。だから「不可逆性」「取り返しがつかない」「完全に一件落着」などのニュアンスが生ずるのではないだろうか。面白いことにロシア語の完了体動詞と似て「~てしまう」には現在形がない。つまりS = R を表わすことができない。

全部食べてしまった。

と助動詞が過去形の場合は E < R < S だが、

全部食べてしまう

は「全部食べている」のように E < R = S ではなく、形としては現在形だが意味的には「これから全部食べる」、つまり未来形 S < E < R だ。ロシア語の

Съем всё.
eat 完了体+ all
全部食べてやる/これから全部食べる(ぞ!)

とそっくりだ。


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