1492年は受験生泣かせの年で(誰が泣くか)世界史で重要な出来事が3つも起こった。その一はコロンブスのアメリカ大陸到着(一部には新大陸発見などという名称も使われているようだが、いくら何でも先住民に失礼すぎやしないか)、その二がレコンキスタの完成(グラナダ王国の滅亡)、その三がアントニオ・デ・ネブリハによる『カスティーリャ語文法』Gramática de la lengua castellana の出版である。
 ネブリハの『カスティーリャ語文法』は長い間ヨーロッパで唯一の書き言葉・文化語であったラテン語の位置が各国言語、つまり口語にとって変わられていく重要な一歩となった。その序文でネブリハはこの本を大国となったカスティーリャの女王イザベラに捧げ、新たにその支配下にはいった(カスティーリャ語を母語としない)民がこの素晴らしい支配者の言語が使えるようになるための手助けになろうと言っている。またそこで述べられているネブリハの言語観は今でも通じる近代的なもので、この文法書は 今から見ると言語学史上の金字塔であった。
 私はその『カスティーリャ語文法』について大きく誤解していた点が二つある。まず、私はこれがあたかも1957年に出版されたチョムスキーの Syntactic Structures のごとく出版と同時にセンセーションを巻き起こしたのかと思っていた。ところが実はそうではなかったらしく、ネブリハの生存中当書はほとんど人の目を引かず、やっと18世紀になってから第二版が出たそうだ。ダイグロシア崩壊期によくある「下品な口語なんかに文法もクソもあるか」というお決まりの批判にも晒された。そもそもネブリハはラテン語の専門家で、直前の1486年に『ラテン語入門』Introductiones latinae という本を出版している。こちらの方は売れに売れて16世紀だけで59版刷られたそうだ。「金字塔」という評価はずっと後になってからなされたのである。
 二つ目の誤解は、「新たに女王の支配下に入った民」と聞いてアメリカ大陸の先住民が思い浮かんでしまい、植民地の支配を容易にするためにカスティーリャ語を押し付ける手助けにこの文法書を捧げたのかと思っていたことだ。こちらの誤解の方がずっと程度が馬鹿で我ながら赤面に堪えない。ちょっと考えてみればわかりそうなものだった。
 『カスティーリャ語文法』が出版されたのは1492年8月18日である。その直前、やっと8月3日にコロンブスが航海に出発したのだから、当然その時点では植民地もアステカ人やインカ帝国への虐殺・支配はまだ影も形もない。コロンブスのバハマ到着が10月12日、その地でいろいろ探検して、スペインに帰って女王に航海の結果を報告したのは翌年1493年3月である。しかもコロンブス本人は死ぬまで自分の行った地はインドか中国だと思っていたのだし、ネブリハも確かに文法書の出版は1492年だが原稿そのものはそのずっと以前から着手していただろうから、「女王支配下の新住民」がアメリカ大陸の先住民を指していたはずはない。
 この「新たに支配下に下った住民」というのはイベリア半島の住民のことである。ロマンス語を母語としない住民、つまりアラブ人とユダヤ人のこと以外あり得ない。グラナダ王国が陥落したのは文法書が出る前の1492年6月2日だがそれ以前にイスラム側はジワジワと領土を失っていっていた。しかし領土が失われ支配者が入れ替わっても住民まで入れ替わったわけではない。早とちりな誤解への反省の意味を込めてちょっとイスラム支配下のスペインの歴史や言語構成、住民構成はどうなっていたのか見直してみた。

 本題に入る前に確認しておきたいことが何点かある。第一点が「レコンキスタ」、「再征服」という命名にそもそも問題があることだ。複数の歴史家がそう言っている。この言葉から連想されるのはキリスト教徒が団結してムスリム支配のイベリア半島を北からジワジワ取り戻していったという図である。しかし実情は全然違う。領土の奪回を狙ったイベリア半島のキリスト教領主は別に「キリスト教の地」を回復しようなどという意図はなく、単に自分の領土、自分の勢力を拡張したかっただけで宗教の事など頭になかった。現に隣のキリスト教領主の領地を奪い取るために仲良しの(?)イスラム教領主の助けを借りたり同盟を結んだりする、またはその逆が日常茶飯事だったそうだ。当地ではキリスト教徒とイスラム教徒は小競り合いはあってもきちんと共存していたである。
 「レコンキスタ」という言葉に暗示される「キリスト教対イスラム教」という間違った対立図式を無理やりイベリア半島にまで当てはめようとしたのは13世紀の初頭エルサレムを取り戻せと十字軍にハッパをかけたローマ教皇インノケンティウス3世あたりらしいが、とにかく「レコンキスタ」という用語は後から人為的にイベリア半島に投影された観念なので不適切だそうだ。
 もっとも十字軍などキリスト教側が狂信化していった時期にはイベリア半島のほうもアラブ人でなくベルベル人の支配下にあって、このベルベル人はアラブ人より宗教的寛容度がずっと低かったようだ(下記)。それで対立図式が当てはまりやすい状況ではあったらしい。

 第二の確認事項は、アラビア文化とイスラム教は区別して考えないといけないことだ。言い換えると「アラブ化」は「イスラム化」とイコールではないということである。イベリア半島にイスラム教徒がやってきたのは711年、イスラム教が起こった622年から100年も経っていない。軍の大部分を構成するベルベル人を率いていたアラブ人が携えてきた文化は「イスラム文化」ではなく「アラブ文化」である。アラブ人が武力だけでなく文化の面でも世界最高のレベルに達したのは確かにイスラム教をかすがいとして諸部族が統一され、領土がアラビア半島外に広がってから、ウマイヤ朝がダマスクスに、アッバース朝がバグダッドに中心を定めてからだろう。そこでインド、古代ギリシア、メソポタミアなどの知の遺産に触れて高度な文化を築き上げた。だがそれ以前、イスラム帝国がまだアラビア半島から出ない頃にすでにアラブ人たちは詩などの言語の文化を発達させていた。酒を愛し、愛の歓び悲しみを歌う高度な言語文化、そういう下地があったからこそ他の文化に触れて自然科学や数学・哲学を自分たちのものとして消化し、自らの文化をドッと開花させられたのだ。野蛮人だったら(差別発言失礼)そこで相手の高度な文化に飲み込まれて自分たちの文化のほうは消滅させてしまうのがオチだ。イベリア半島に伝わったのはこういうアラブの豪族文化であって必ずしもイスラム文化ではない。だからこそイベリア半島には「アラブ人化したキリスト教」が大量にいたのである(下記)。

 第三点。「スペイン人」、つまり「イベリア半島人」としてのアイデンティティはいつ生じたのか。ローマ帝国時代は自分たちをローマ人と思っていたろうが(もちろんバスク人などローマ以前からの先住民はいた)、帝国崩壊後、5世紀から6世紀にかけてゲルマン民族の西ゴート人がやって来て支配者となる。だからスペイン語にはロドリゲス、ゴンザレス、エンリケス、アルバレスなど一目でゲルマン語だとわかる名前が多い。だがそのゴート人は上層部に限られ、当時300万人ほどとみられるヒスパノ・ロ―マ人に対してゴート人はたった15万人くらいで、しかも被支配者の文化に飲み込まれてキリスト教となり言語も速攻でロマンス語に転換してしまった。(ということはゴート人はさすがゲルマン人だけあって「蛮族」だったわけですかね)
 歴史家の意見が分かれるのはここからで、伝統的なスペイン史観では、西ゴート人支配下で「イベリア半島人」(原スペイン人)というアイデンティティが生じていたが、8世紀の初頭にアラビア人が「押し入ってきたので」住民は自分たちのアイデンティティを守るべく立ち上がってレコンキスタに持って行った、ということになる。この歴史観を取っている人には例えばサンチェス・アルボルノス Claudio Sánchez-Albornoz などがいる。もう一つは、西ゴート人支配の頃にはまだまだ「イベリア人または(原)スペイン人」としての一体感などなかった、それが生じたのはアラブ人の支配下でイベリア半島が統一されてから、特にああ懐かしや高校世界史で習ったアブド・アル・アフマーン一世下のウマイヤ朝がスペインをまとめてから、そこで初めて自分たちは同一民族であるという意識が生まれたのだという見解。つまりアラブ文化はイベリア半島人の血肉だということだ。近年はこちらの見解の方が優勢だそうで、カストロ Américo Castro などの学者が唱えている。
 
 四つ目の点は、上記の三点全部に関連することだが、イスラム教は本来他の宗教、キリスト教とユダヤ教に対して非常に寛容だったことだ。このこと自体ははさすがに現在の欧州では(まともな教養の人は)皆知っている。知っているは知っているが時とすると忘れそうになる人もいるので再確認しておく必要がある。イスラム教徒はキリスト教徒、ユダヤ教徒を「啓典の民」ahl al-kitāb と呼んで一目置き、支配地でも宗教の自由を完全に認め、種々の宗教儀式を遂行するのにイチャモンなどつけなかった。ただ他宗教の教徒は人頭税を払わないといけなかったようだ。
 ウマイヤ朝期に首都コルドバでさかんにムスリムをディスっていたキリスト教徒 Eulogius という人物でさえ「このクソ宗教への改宗を強要されたりはしていない」と言っている。後にイスラム教国のグラナダ王国が陥落したとき、キリスト教の支配者がその地に残っていたイスラム教徒に「改宗するかスペインから出ていくか」の二者選択を迫ったのとは対照的である。時代が下ってバルカン半島を支配していた時もイスラム教支配者は基本的に他宗教に寛容であった。そうでなかったらボスニア・ヘルツェゴビナ、シリア、果てはエジプトに現在でも大量のキリスト教徒が暮らしているわけがない。とっくに殲滅されていたはずである。特に成立して間もないイスラム教に支配されていたいイベリア半島にはこの「みんないっしょ」感覚があったらしい。それで上述のように「スペイン人としての一体感はイスラム支配下で発生した」と主張する歴史家もいるのだろう。

 この「イスラム支配下のスペイン」のことを「アル・アンダルス」という。歴史用語である。

 さてそれらの確認事項を踏まえてアラブ人の到来からネブリハの文法書出版に至るまでのイベリア半島の歴史をごくかいつまんで追ってみた。
 上述のようにイベリア半島はラテン語崩れのロマンス語を話すいわばヒスパノ・ローマ人を少数のゴート人の貴族が支配している状態だった。ガッチリ統一された国家でなく諸侯のバラバラ支配だったので結束が弱く、あっという間にアラブ人に入られたのである。711年、アラブ人の将軍ムーサー・イブン・ヌサイルの代理ターリク・イブン・ジヤードが7000人のアラブ人兵士と5000人のベルベル人の兵士を率いてやってきた。それでスペインの最南端が「ターリクの山」、ジャバル・アル・ターリクと呼ばれているのだ。もちろんこれがジブラルタルという名前の語源である。続いて将軍自身もさらに18000人ほどの増強兵力(その多くはベルベル人)を率いて上陸し、あっという間にイベリア半島を支配した。支配者アラブ人の人口は兵士や、後からやってきたその家族を入れても5万人ほどだったのではないかと思われる。それに対してヒスパノ・ロ―マ人は五百万人から六百万だったと、上述とは別の歴史家の推定している(やはり人によってばらつきがあるようだ)。
 ゴート人なんかの文化にはほとんど影響を受けなかったヒスパノ・ローマ人も、このアラブ人の文化は自分たちを遥かに凌駕していることに気づきたちまち影響された。ヒスパノ・ローマ人の四分の一が一世代内でイスラム教に改宗、10世紀には四分の三、後のグラナダ王国では住民の大半がイスラム教徒だったと推定される。この人たちは muladíes、ムラディと呼ばれた。また上述のようにイスラム教徒は他宗教に寛容だったのでキリスト教徒のままでいた住民も少ないとは言えなかった。これを mozárabes、モサラベという。「アラブ人のようになった人たち」という意味だ。モサラベはイスラム教は取り入れなかったが、アラブ文化には強烈に影響された。上述のように「イスラム化」には何世紀かかかっているが「アラブ化」は速攻だったようだ。すでに9世紀にコルドバのアルバロ Álvaro(名前からするとこの人はゴート人である)とかいうモサラベ人がボヤいている:「最近の若いもんはラテン語もよくできないくせにアラビア語の詩だの寓話だのをありがたがり、イスラムの哲学神学の本ばっか読みやがる。アラブ人の言語文学を勉強し過ぎてキリスト教のこと書くのにまでアラビア語の文章語を使いおって、ああ嘆かわしい」
 身近な者がどんどんアラブ化していくのに危機感を持ったのはアルバロばかりではなかったらしく、不満の矛先をイスラム教徒に向けて悶着をおこすこともあったらしい。居辛くなって9世紀ごろからまだアラブ人に支配されていないイベリア半島の北の方に移住する者もいた。もともと人のあまり住んでいなかったところで、支配しても得になりそうになかったのでアラブ人に無視されていたのである。後にここから「レコンキスタ」が始まった。

初期のアル・アンダルス。ウィキペディアから。
By Al-Andalus732.jpg:Q4767211492~commonswiki (talk · contribs)EmiratoDeCórdoba910.svg:rowanwindwhistler (talk · contribs)derivative work: rowanwindwhistler (talk) - Al-Andalus732.jpgEmiratoDeCórdoba910.svg, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=59750789
Al-Andalus732.svg
 ウマイヤ朝に続くコルドバ・カリフ国の終わりごろ、11世紀の初頭から国が分裂しはじめ、小国相対するいわば戦国時代になった。これをターイファ tā’ifa 時代という。面白いことにこの、政治的に不安定だった時期に優れた詩人や思想家・芸術家が続出した。諸侯が権力を誇示するために武力をひけらかすばかりでなく、競って芸術の擁護者たろうとしたからである。セビーリャのアル・ムタミド・イブン・アッバード al-Mu'tamid ibn Abbad など自らが詩人である領主もいた。
 一方このターイファ諸侯が周りとの戦いのためアフリカからベルベル人の傭兵をさかんに呼び寄せたことから政治状況がさらに不安定になった。ベルベル人がアラブ人に取って代わってアル・アンダルスを支配するようになったからである。この時期にやってきたベルベル人は、ムーサー・イブン・ヌサイルやウマイヤ朝のアラブ人と共に来たベルベル人とは分けて考えないといけない。前者はイスラム教徒だったばかりでなくアラブ文化にも同化していたが、後者はアラブ化はせずイスラム教だけ取り入れた集団であったからだ。背景となったアラブ文化、その寛容さや享楽的な背景なしでイスラム教だけ取り入れたらどうなるかは簡単に想像がつく。彼らは今でいうイスラム原理主義だった。キリスト教に対するのと勝るとも劣らない批判の目をアル・アンダルスの「堕落した」イスラム教徒に向けた。例えばそこでよく詠まれていたペルシャのイスラム神学・哲学者アル・ガザーリー al Ghazālī の著書を焚書に処したりしている。またコルドバ・ウマイヤ朝やカリフ国がダマスクスやバグダッドの当時世界最高の文化と密接な交流があったのに対し、ベルベル人の臍の緒は常に北アフリカと繋がっていた。11世紀からアル・アンダルスを支配したベルベル人の王国アルモラヴィド朝もその後継者のアルモハード朝も首都はイベリア半島にでなく、モロッコのマラケシュにあったのだ。このベルベル人支配の下でキリスト教モサラベ人はコルドバ・カリフ国より格段に居辛くなった。「居辛く」というより追放令も出たそうだ。そのモサラベの脱出先、北の方も北の方で上述のように十字軍のころ、キリスト教側も狂信的になっていたころである。しかもピレネーの向こう側から助っ人がワンサとやってきた。ボソング Georg Bossong という史学者はこの状況を「ヨーロッパ化したキリスト教とアフリカ化したイスラム教、つまり十字軍とジハードの衝突」と言っている。この二者がアル・アンダルスを引き裂いたのである。
 言い換えると、もし「イスラム教がイベリア人のアイデンティティを分断した」とどうしても考えたいのなら、それはアラブ人のことではない、(第二波の)ベルベル人である。そして文明文化をもたらしたアラブ人は「イベリア人」の側なのだ。
  そういえば昔当時のスペインを題材にした(という)『エル・シド』という映画があったが、あれも注意しないと解釈を誤る。原作の叙事詩にすでに脚色があることに加え、映画も原作に忠実とは言い難く、しかもご丁寧にキリスト教スペクタクル映画の定番チャールトン・ヘストンが主役なので、どう見ても「イスラム教と戦ったレコンキスタのキリスト教英雄伝」にしか見えない。しかし実際のエル・シド、Rodrigo Díaz de Vivar あるいは Ruy Díaz de Bívar はむしろターイファの騎士で、カスティリアのキリスト教領主から、サラゴサのイスラム教領主へ転職し(これはあくまで「転職」であって裏切りとかそういうものではなかった。上述のようにアル・アンダルスではユダヤ教もキリスト教もイスラム教も「みんないっしょ」だったからである)、その領主に何年も忠実に使えている。そして共にバレンシアに攻め入ってきたアルモラヴィド人(ベルベル人)と戦ったのである。この映画のラストをおぼろげに覚えているが、エル・シドの死体が馬に乗せられて戦場を駆け抜けるとき(あらネタバレ)、ターバンを巻いた兵士たちが畏怖の念に憑かれてサーッと引いていく。あれらの兵士はアラブ人ではない、北アフリカの「異民族」ベルベル人のはずだ。これを単純に「イスラム戦士」といっしょくたな解釈をしてはいけない。

アルモラヴィド朝の領土。首都はスペインでなくモロッコのマラケシュにあった。
https://historiek.net/al-andalus-het-spanje-der-moren/74627/から

Het-imperium-van-de-Almoraviden
 さてこのベルベル人は戦いでは勇敢、宗教的には生真面目だったが、政治の駆け引きや人民の統治能力がなく、どんどんその領土を失っていった。キリスト教徒の南進によって、その領土内には大量のイスラム教徒が居残ることになる。彼らは町の中心部からは立ち退かされたが、領内に住むこと自体は許され、宗教の自由も認められた。これらのイスラム教徒を mudéjares、ムデハルという。「居住を許された者」という意味だ。このムデハルも言語や文化の面でキリスト教側に大きな影響を及ぼした。
 13世紀半ばにはセビーリャがキリスト教徒の手に落ち、イベリア半島はほとんどキリスト教側の支配下に入った。その「ほとんど」を維持し、1492年まで200年に渡ってイスラム教の王国として持ちこたえ、高度な文化を維持したグラナダのナスル朝はアラブ人の国である。武力ではなく政治手腕で持ちこたえた国だったが、とうとうグラナダの陥落する時がやってきた。最後の王アブー・アブダラー Abū ʿAbdallāh はキリスト教側の降伏要求に応じて1492年1月2日宮殿の鍵を手渡したのである。王はグラナダから追われ最後に峠から町を一瞥して溜息をついた。その峠が現在 El Suspiro del Moro「ムーア人の溜息」と呼ばれる場所である。それを見て王の母が言ったそうだ:「何を女みたいにメソメソしているの?町を取られたってあなた、それを守り切れなかったのはあなたでしょ」。もちろんこれは単なる伝説である。
 細かい事を言えばアブー・アブダラーはアラブ人であってムーア人、つまりベルベル人ではなかったはずだが、グラナダ王国の時期には北から「居辛くなった」ムデハルが多数う移住してきてある程度均等な社会を構成しており、住民レベルではアラブ人とベルベル人の区別は薄れていたそうだ。
 溜息の後アブー・アブダラーは北アフリカに渡り、モロッコのフェズで不幸な生活を送りそこで死んだ。

(前置きだけで記事が終ってしまいました。この項続きます。)

「レコンキスタ」進行の様子。最後の砦グラナダ王国も1492年陥落した。
http://ferdidelange.blogspot.com/2018/05/reconquista-van-miquel-bulnes-is.htmlから

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