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◆沖縄県慰霊の日に思う

本日6月23日は『慰霊の日』です。
沖縄戦における組織的戦闘の指揮が終了した日とされています。
第32軍司令官の牛島満中将が自害については6月22日または23日と不明確な状態のようです。
当時の沖縄県知事島田叡氏は6月26日頃に戦闘死または自害したとされています。

正憲が小中学生の頃は、慰霊の日の前には図書室や空いた教室で沖縄戦写真展が毎年開催されていました。
教材用につくられた戦中戦前の沖縄の写真が数十枚展示され、それは生々しい写真も多く含まれていました。
手榴弾で自決した村民や家族のバラバラ遺体なども修正されずに公開されていました。
戦前の沖縄の風景も十数枚あり、その景色が一転する様も観ることができました。

あるときから、そういった写真展はなくなったようです。

「死体の写真をみせることが教育とは思えない」
「戦争の写真は子ども達の記憶や心に悪い影響を与える」
「沖縄だけが被害者であるような記述が多く不公平である」
「戦争の写真は返って戦争賛美に繋がる」

などなど、様々なクレームや意見が教育関係に寄せられたようです。
殺人ゲームなどを買い与えて現実と非現実の区別がつかない、痛みの分からない子どもに育ててしまっているのに、戦争の恐ろしさを伝える手段を無くしてしまったら、ヴァーチャルの世界で起きていることと錯覚してしまう恐れがあります。
馬鹿な要望に屈する現在の日本の状況は本当に憂いに値します。
少数の歪んだ意見に多数が黙らないといけない社会は、少数の意見が取り入れられる多数決社会とは似て非なるものです。

話が逸れてしまいましたが、若者に沖縄戦を伝える手段を失った沖縄に真の平和を求める未来があるのか、政争のための平和運動が真の平和に繋がるのか、宇露戦争が起きる今こそ再度考えなければなりません。

正憲の祖父の兄、大伯父には一人息子がいました。
その長男さんは沖縄戦開戦前に戻ってきました。
大伯父の家に届いたのは一通の電報と小さな骨壺に入った石だったそうです。
「硫黄島で戦死」との電報だったそうです。
大伯父に限らず、日本各地から硫黄島や南洋諸島、東南アジアに出征して戦死した方々の遺骨は戻ってきたものは少ないと聞いています。

大伯父は数え99歳の長寿でしたが、戦後沖縄がアメリカ世、ヤマト世と発展していく中で、昭和の終わりに寂しく亡くなりました。

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平和の礎(沖繩県糸満市)

硫黄島で戦死した大伯父の長男さんは、糸満市摩文仁の『平和の礎』にその名前が刻銘されているそうです。
平和の礎が建てられてからだいぶ経ちますが、その場所を訪れ、伯父の名前を確認しようと何度も思いました。
でも、未だに行けていません。
お金がなくても慎ましやかに、しかし愚痴1つ言わずに生きていた大伯父の姿を思い出すと、いつも目頭が熱くなる思いになり、その痕跡を辿る平和の礎に脚が向かないのです。
物静かでいつもニコニコしていた大伯父でしたが、慰霊の日や敗戦記念日には日の丸を掲げ、一人静かに平和の祈願していたのだと思います。

今年は敗戦から77年、沖縄日本復帰から50年、区切りの年と考えても良いかもしれません。
正憲自身も平和を考えるあたり、平和の礎を訪ねることができなかった大伯父の代わりにその刻銘を確認しに行きたいと思います。
大伯父の弟である祖父は出来て間もない頃に平和の礎に行きました。
疎開できずに沖縄戦の戦禍を生き抜いた祖父は甥の名前を確認したかったようですが、平和の礎に行ったのはその一回限りでした。

その場所で甥っ子の名前を見たときに、正憲がは知ることができないような様々な記憶の深みに嵌まったのだと思います。

祖父も大伯父も沖縄戦についてほとんど語ることがありませんでした。
祖母は宮崎疎開の話だけしてくれました。
沖縄戦が何であったのか、何が起きていたのか、戦前の沖縄とはどういう所だったのか、そういった真実を知らずに沖縄の平和を語っても絵に描いた餅にしかなりません。
生き証人が少なくなった今、映像を駆使した記録作りは急務だと思います。

今日は『沖縄県慰霊の日』です。
先の大戦で犠牲になった方々、戦争直後に苦労して亡くなった方々の御霊のために祈りましょう。

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