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伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆

2023-02-03 00:00:02 | 古代史
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2021-02-01 10:42:46に記事にしましたが、この話は刮目天オリジナルなので眉に唾つけてお読みください( ^)o(^ )。また、本文の末尾に書き洩らした重要なことを付け加えて再掲します(紫字の部分)。お付き合いください(#^.^#)


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2023/01/18 旅の+one


鬼払いですが、宮中では大みそかにやるそうです。民間では節分に行われる、この鬼を払う行事のことを追儺(ついな)とか鬼儺(おにやらい)とか言うそうです。にんべんに「難」という字は「はらう」という意味だそうです。



ここから古代史の話です。「難」の字が「魏志倭人伝」に出てきます。景初三年(239年)六月に女王卑弥呼が魏に朝貢するために帯方郡に送った大夫難升米(なしょうめ)です。「難」の意味はいくつかありますが、人名でこの字を使うのは考えられません。魏志倭人伝の中には良くない字「卑字」が多用されているので、注意を払われないかも知れません。しかし、「難」は「にんべん」を省略した可能性があります。そうすると、儺升が姓で米が名と考えられます。W?「漢委奴国王」の金印でも倭の「にんべん」が省略される例が見られますので、当時の流行なのかも知れません。

そうだとすると、「難升」は鬼を追い払った倭王師升の故事を指すことになります。

そうなんですよ!

卑弥呼が登場するまで倭国大乱が起こっていますが、その前の七・八〇年間は男王が倭国を支配していたと「魏志倭人伝」にあります。つまり七・八〇年前の男王は、永初元年(107年)に160名もの生口(奴隷・戦争捕虜)を洛陽まで連れて後漢安帝に朝貢した倭国王帥升です(范曄「後漢書」)。「帥」という姓の元祖は「師」だったそうです。司馬懿の長男司馬師の諱(いみな)を避けて帥に変えたというのが始まりだと「廣韻」という文献から分かります(注)。「師」姓は宮廷の楽師のもので、帥升は本当は奴国の宮廷楽師「師升」で、宮廷祭祀を担当していた人物だったと分かります。その楽師たちがクーデターを起こし、第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ、【付録】「王年代紀」参照)を殺して奴国を乗っ取る事件があったと推理しています。

スサノヲ大王は父が伊弉諾尊(イザナギ)で、春秋の呉の太伯の後裔になりますが、母は縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊(イザナミ)です。記紀神話で国生みを行った夫婦の神ですので知らない日本人はいないと思います(*^。^*)

スサノヲは母方のムナカタ族とともに半島南部の鉄を求めて海を渡る等、宮殿を留守にすることが多く、祭祀を楽師たちに任せていた模様です。たまに戻ってくると、呉から伝わる奴国の伝統祭祀に、恐らく縄文風の祭祀を導入しようとしたのではないかと推理しています。そこで困った師升らは、スサノヲの留守中にクーデターを計画して、帰還したところを捕らえた模様です。記紀神話では、姉のアマテラス女神に逆らって高天原の神々に乱暴を働いたので、罰として髪の毛をむしられて、爪も剥がされて追放されたことになっています。しかし実際は、師升が奴国王に収まるために金印の在りかを白状させようと拷問したことを表しているようです。結局は殺されたと推理しています。

その故事から、儺升を姓とする難升米は、本当は大夫ではなく、師升王の一族の倭王だと推理できます。魏から正規軍の軍旗「黄幢」を女王にではなく難升米に授けられています。軍事を掌握している人物なのです。「魏志倭人伝」では倭国には伊都国だけ男王が居たとあります。さらに、女王卑弥呼の政治を補佐する男弟で、刺史のような役の一大率のことです。帯方郡を訪れて司馬懿の部下の太守劉夏と談合し、倭国を女王が支配するエキゾチックな東夷の大国という設定にして魏の朝廷の人々の注目を引くために作った話でしょう。「卑弥呼の最初の遣使は景初二年六月なのか?」で述べたように倭国を懐柔して魏のライバルの呉を東海上から挟み撃ちにする戦略を成功させた司馬懿の功績を魏の第一のものとしたいからなのです。ですから実際は、倭王難升米が姫巫女卑弥呼によって太陽神の神託を受けて政治を行っていたと推理できます。

しかも、王の居城の在った伊都国だけが良い意味の字が使われ、他のほとんどの国々や人名には卑字が充てられています。当時すでに漢字が使われていたこともその時代の遺物から分かっています。難升米はシナ語も話せた教養人で間違いないです。伊都国の「伊」は殷(商)の初期の宰相伊尹(いいん)を連想する字です。伊尹が定めた都という意味ですが、Wikiによれば、伊尹は以下のような評価の人物です。

後世、伊尹は名臣として評価されているが、太甲の追放の一事に関しては、臣下でありながら主君を押し込めたこと、簒奪ではないかということが議論されることになる(孟子・尽心上篇)。有力な臣下が仲の悪い主君を追放したとする見方もある。実際、太甲の追放は、前漢の霍光とともに後世、自分に都合の悪い君主を追放したい有力者が、追放の口実とすることがままあった。

まさに、師升が奴国大王から王位を簒奪した故事と重なります。伊都国は難升米の先代が名付けた国名かも知れませんが、伊尹と師升の故事の一致を表しているのです。

日本の鬼儺(おにやらい)の始まりは伊都国の師升でしょう(^_-)-☆

表題の話はここまでですが、大事な話を追加させてください。

日本書紀 仲哀天皇紀に博多を儺県(なのあがた)としていますので、日本書紀の編纂者は王年代紀(宋史)第18代奴国大王スサノヲがクーデターで殺されて奴国が滅んだ史実を知っていながら、高天原の乱暴者の神として神話を創作した重要な証拠のひとつなのです。高天原は奴国だったのです。だから、大和と北部九州の地名が、その配置もよく一致しているのですよ(^_-)-☆。


(2020.3.1 朝倉卑弥呼伝説@YouTube より)

そして天照大御神を女神にしたのも第19代王天照大神尊つまり、吉備で奴国を再興し、ヤマト政権の基礎を築づいたニギハヤヒ大王(先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)から名前を取ったものなのです。持統天皇とされる鵜野讃良が孫の文武天皇を即位させたので、その正当化のために女神のモデルにして天孫降臨神話を創ったのです。

ニギハヤヒはスサノヲ大王の弟でクーデターを逃れたと推理しました。ですから、伊勢神宮内宮の御祭神の天照大御神という神の名も天照大神尊から取ったものです。しかし、別名天照皇太神となっているのでニギハヤヒが祭神の正体ではなく、初代祭祀王応神天皇の本当の父である大国主久々遅彦なのです。外宮に呼び寄せた豊受大神が妃の台与(トヨ)なのですから分かります。

皇祖神であるはずの天照大神を崇神天皇がなぜ宮中で祀ることができなかったのかを考えると、祟りがあるからなのです。国譲りさせられた大国主(大物主)が祟ると日本書紀の編纂者はそれとなく告白しているのですから面白いです。朝廷は神々にランクを付けていますが、四柱だけ特別な神階を贈っています。淡路島の伊弉諾尊と八幡大神・八幡比売神、そして吉備津彦なのです。八幡大神は応神天皇となっていますが、本当はその父の大国主久々遅彦ですし、八幡比売神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼で、最後の人物がニギハヤヒなのです。天変地異などがあると朝廷は勅使を送って捧げものをしますから、これらの神が実在人物だったと分かりますね(^_-)-☆

伊勢神宮では本殿床下に心御柱(しんのみはしら)という男性のシンボルとみられる木の柱が存在し、遷宮の時に見ることができるそうです(注)。江戸時代まで伊勢の神と三輪の神大物主は同じだと知られていましたので、神職の方はどなたを祀っているか分かっておられるとは思いますが、決して言挙げしないことになっているようですので、このことを尋ねないようにしましょう(^_-)-☆

(注)リンク先のURLが不正になるので、「伊勢神宮に地下宮殿があった!!」で検索してください。「心御柱」について詳しく説明されていますよ(@_@)

【関連記事】
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)

(注)Wikiwnd「帥姓」
帥姓是中國姓氏之一。西晉武帝司馬炎追伯父司馬師為晉景帝,並令天下避「師」字名諱,故部分師姓者改為帥姓[1]。也是帥姓的源頭之一[2]。
帥姓は中国の氏姓のひとつ。西晋の武帝司馬炎が伯父司馬師を晋景帝として、諱(いみな)の「師」の文字を避けさせたので、師姓の者は帥に変更している[1]。これが帥姓の始まりのひとつ[2]。
[1] 《廣韻》:帥本姓師,避晉宣帝諱改帥氏。(宣帝は景帝の誤りでしょう)
[2] 《姓苑》:本姓師,避晉諱改帥,帥與率同,望出南陽、河南、范陽。
もとの姓は師。晋景帝の諱を避けて帥とした。帥は率と同じ意味で、南陽、河南、范陽の方に見られる。


天照大神は、本当は「男神」だった?
…天皇家の最高神をすり替えた『日本書記』

関裕二(歴史作家)Web「歴史街道」2022年06月23日 更新
プロの文章ですから分かり易く書かれていますので、是非、お読みください。


伊都国の意味がヒントだった?
邪馬台国問題や日本建国はこれに気づけば解決に向かいます(^_-)-☆

【付録】王年代紀(宋史 日本)
藤堂明保ら「倭国伝」(講談社学術文庫2010,pp.278-279)

 其の年代紀に記す所に云う。
 初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。
 次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰い、其の後は皆な尊を以って号と爲す。
 次は天八重雲尊(あめのやえくものみこと)。
 次は天彌聞尊(あめのににぎのみこと)。
 次は天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)。
 次は贍波尊(みなみのみこと)。
 次は萬魂尊(よろずむすひのみこと)。
 次は利利魂尊(ととむすひのみこと)。
 次は國狭槌尊(くにさづちのみこと)。
 次は角龔魂尊(つのそむすひのみこと)。
 次は汲津丹尊(くみつにのみこと)。
 次は面垂見尊(おもだるみのみこと)。
 次は國常立尊(くにとこたちのみこと)。
 次は天鑑尊(あめのかがみのみこと)。
 次は天萬尊(あめのよろずのみこと)。
 次は沫名杵尊(あわなぎのみこと)。
 次は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。
 次は素戔烏尊(すさのおのみこと)。
 次は天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)。
 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)。
 次は天彦尊(あまつひこのみこと)。
 次は炎尊(ほむらのみこと)。
 次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
 彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。 次は綏靖天皇。・・・・・
(王の読みは『日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】2018年02月07日』による)



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2 コメント

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こんばんは (morkohsonimap)
2023-02-03 03:34:56
そういう事だったんですね”追儺“の解釈、
楽しく読まさせてもらいました
っていうか、寺社でも
”節分会“を使うとこが多いですが
”追儺式“って言ってる寺社を見ると、「ん、ここはわかっちょるねぇ」っていうことで一人ごちている自分でしたが、なんもわかってなかったようで・・・(汗
刮目天さんのおかげでまさに目から鱗でありました。
勉強させていただきました。
Re:こんばんは (刮目天 一(はじめ))
2023-02-03 06:28:09
おはようございます。
とてもうれしいコメントで気持ちよく目覚めました。有難うございます。
最初のころは、儺県(なのあがた)って日本書紀にあるじゃない、と発見したのかな?追儺は中国伝来だけど、なんで博多なの?ってことから考えていて、難升米っていう名前はヘンだよねって思っていましたが、倭王帥升のことを調べてみると、帥升じゃなくてもとは師升だとわかって、奴国の宮廷楽師と正体がわかったのはうれしかったです。倭国大乱の原因をずっと考えていたのです。王年代紀の第18代王スサノヲが奴国王だと確信しました。伊都国の意味が分かったのですが、難升米が書いて教えた証拠だというのはかなり後になってです。ネットでコメントして議論しているうちに気づいて驚きました。やはり、自分だけで考えるのではなく、人様の脳みそを拝借するのはとても重要だったと改めて分かりました。いろいろな疑問点をお教えください。今後ともどうぞよろしくお願いいたします(#^.^#)

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