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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その16)日本書紀の仏教伝来の記事はウソだった?

2022-08-10 00:00:08 | 古代史
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いつも勉強させていただいている「ねずさん」の動画に、随分前に、ちょっと言葉足らずのコメント入れましたが、つい忘れていました。お付き合いください( ^)o(^ )

7.記紀と日本人の信仰の謎
②日本書紀の仏教伝来の記事はウソだった?( `ー´)ノ


学校では教えない日本で仏教が広まった意外な理由|小名木善行 69,128 回視聴 2021/11/11 @YouTube

物部と蘇我の仏教をめぐる対立というのは「日本書紀」の虚構だと分かって来ています。当初から仏教は受け入れられています。理由も分かっています。物部氏は百済と関係が深く、蘇我氏は新羅ですが、どちらも仏教を取り入れています。両者の対立は半島南部の鉄の利権の対立です。物部(ニギハヤヒ)系と蘇我(スサノヲ・大国主)系の氏族が大王位を巡って血で血を洗う抗争にまで発展しています。「日本書紀」はその最後の武力抗争である壬申の乱を勝利した天武天皇が命じて編纂が始まりましたが、崩御の約三十年後の720年に、当時の権力者藤原不比等によって完成されました。ですから、不比等は藤原氏の権力を正当化するために、不都合な歴史を隠蔽し、改ざんしていることが分かってきました。つまり、「日本書紀」の正体は天皇家のものでなく、勝者藤原氏の歴史書なのです。詳細は拙ブログ「刮目天のブログ」で説明していますので、よろしければどうぞ!お邪魔しました。

以上のような書き込みを唐突にしましたが、もう少し詳しく述べる必要がありますね。ご存知のとおり、仏教伝来の年をめぐって諸説あり、「日本書紀」では欽明十三年(552)とされ、また「元興寺縁起」では欽明七年の戊午年(538)となっていますので、通説では欽明天皇の時代に仏教公伝があったとされています。〔しかし、 欽明七年は丙寅年(546)になり、戊午年は先代の宣化天皇三年になりますから、関裕二「古代史 不都合な真実」(じっぴコンパクト新書342)にあるように日本書紀が改ざんした歴史の真相を暴露する目的だったのかも知れません。〕(2022.8.11 赤字追加)

しかし、五世紀後半のヤマト王権がすでに仏教を取り入れていた可能性があることは、新撰姓氏録(巻二十和泉国 神別の条)の記事から推理できます。雄略天皇の病気(日本書紀では二十三年(470年)七月に病気になり八月七日に病気が重くなり崩御)を治すために、「豊国奇巫」(とよのくにのあやしきかんなぎ)が宮中に呼ばれたという記事があり、ここから推理できます。

巫(かんなぎ)は古神道のシャーマン(巫覡)のことですが、香春岳から宇佐にかけて、三世紀末から半島南部(新羅)との交流があり、道教や仏教が導入され八幡信仰が行われていました(「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。すでに原八幡神は宇佐八幡宮の祭神であるムナカタ女神(比売大神、卑弥呼)であることは突き止めています。

時代は下って587年、用明天皇の病気のために「豊国法師」が招かれたという記事(注1)から「豊国奇巫」は新羅仏教(注2)の僧侶だったと推理できます。古代神道の巫覡であれば多くの人々が見慣れていますので、「奇巫(あやしきかんなぎ)」という言葉は使われるはずはないので、異国の不思議な巫覡つまり法師ということを伝える言葉だと分かります。

雄略天皇二十三年(470年)には仏教公伝があった(新羅仏教が伝わっていた)ということなのです。

それではなぜ、日本書紀で蘇我馬子と物部守屋・中臣勝海の仏教公伝をめぐる抗争があったと記されたかが問題ですが、上にコメントしたスサノヲ・大国主系豪族とニギハヤヒ系豪族の抗争の事実を隠すためだと推理できます。

しかし、中臣勝海は藤原不比等の一族なので、敗者側に置かれるのは矛盾するように見えますが、中臣氏の始祖アメノコヤネが日本書紀の創作でしたので、実は中臣氏の存在は鎌足の正体(百済王子扶余豊璋)を隠すために創作された氏(うじ)なのかも知れません。何故、藤原に改姓しなければならなかったのかを考えると、中臣氏が古くは遡れない一族だったからだと推理できます。中はナーガ(龍蛇神)の意味ですから、中大兄の家臣という意味なのです。ニギハヤヒ大王の血筋の奴国王の跡継ぎで欽明天皇・敏達天皇の子孫天智天皇のことですが、日本書紀にはどこにも皇子と書かれていません(渡辺康則「万葉集があばく 捏造された天皇・天智<上><下>」大空出版 参照)

日本書紀を信じる方にとっては、なんじゃこれ?ですが、これで驚くことはないですよ(^_-)-☆

実は諏訪大社の江戸時代までの筆頭神官家が守屋家だったということで、物部守屋も創作だったというトンデモない話なのです。物部氏も仏教を取り入れて、物部守屋よりも少し後になるようですが、飛鳥時代初期の七世紀前半創建とある渋川廃寺を氏寺にしていました。恐らく、下の記事で述べた諏訪大社創建の話がもとになって、大国主・台与の末裔の蘇我氏(実は大王家、一族の名前にみな豊が付きますよ。渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」大空出版 参照)と物部氏(ニギハヤヒ大王家)の抗争話を誤魔化すために崇仏・廃仏抗争を創作したものと推理しています。

あの諏訪大社の神様も?

(注1)日本書紀用明天皇紀に豊国法師(とよくにのほうし)が参内し、それに反発した物部守屋と中臣勝海が挙兵する話が以下の通りあります。

二年夏四月二日、磐余(いわれ)の河上で、新嘗(しんじょう)の大祭が行なわれた。
この日、天皇は病にかかられて宫中に帰られた。
群臣(まえつきみ)がおそばに侍り、天皇は群臣まえつきみに言われた。
「私は仏、法、僧の三宝に帰依したいと思う。卿けいらもよく考えて欲しい」
群臣は参内して相談した。

物部守屋大連(もののべのもりやおおむらじ)と中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)は、勅命の会議に反対して、
「どうして国つ神くにつかみに背いて、他国の神を敬うことがあろうか。大体、このようなことは今まで聞いたことがない」
と言った。
蘇我馬子大臣(そがのうまこおおおみ)は、
「詔みことのりに従ってご協力すべきである。誰がそれ以外の相談をすることになろうか」
と言った。
穴穂部皇子(あなほべのみこ)は豊国法師(とよくにのほうし)をつれて、内裏に入られた。物部守屋大連は、これを睨んで大いに怒った。このとき押坂部史毛屎(おしさかべのふびとけくそ)が慌ててやってきて、こっそりと大連に告げて、
「今、群臣たちは、あなたを陥れようとしています。今にもあなたの退路を絶ってしまうでしょう」
と言った。
大連はこれを聞き、別業(なりどころ)のある河内の阿都(あと)に退いて人を集めた。

中臣勝海連は自分の家に兵を集め、大連を助けようとした。
ついに太子彦人皇子(ひつぎのみこひこひとのみこ)の像と竹田皇子(たけだのみこ)の像を作ったまじないをかけて呪った。
少し経ってから事の成り難いことを知り、帰って彦人皇子の水派宮(みまたのみや)の方へ着いた。


(注2)wiki「朝鮮の仏教」によれば、新羅への伝搬は諸説あるが、528年(法興王14年)に、高句麗からもたらされた仏教の受容を訴えた異次頓(朝鮮語版)の殉教を経て公認されたという説が有力である[1]。とありますが、すでに「高句麗へは372年(小獣林王2年)に、前秦王苻堅が胡人の僧順道を派遣したことが初伝であり、この時期には般若系の思想や格義仏教が伝わっている。」とあるので、新羅は公認前ですが、民間では仏教が伝わっていたと考えられます。


日本書紀が偽の歴史書だと分かると全てひっくり返る感じがしますから、逆に面白くないかも知れませんね(*´Д`)
ここまでお付き合い有難うございます!
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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2 コメント

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今回は (morkohsonimap)
2022-08-10 02:58:49
実に楽しく楽しめた内容でした
こういう内容は完全に好きです
もっともっとお願いできれば幸いです
Re:今回は (刮目天 一(はじめ))
2022-08-10 09:53:13
早速いいコメントをありがとうございます。世の中、実は欺瞞に満ちていますので、わたしもちゃぶ台返しは嫌いじゃないのですが、いろいろな影響を考えると、大それた話ですからいいのかな?って自問しながらやっています。

やっぱ、穏やかな空気を求めて無難に行くと、大変な失敗になることもありますので、邪心抜きに真実を探求するという意味ですから、理解者が居るのは心強いです。これからもよろしくお願いしますね(*^▽^*)

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