年号出来事
1565(永禄8)(5月)将軍足利義輝が京都の御所で三好三人衆に暗殺される
1566(永禄9)足利義昭が緒大名に供奉を呼びかける。斎藤氏との抗争のさなかであった信長は参陣することを申し出るも、結局斎藤氏との抗争を優先
1567(永禄10)
1568(永禄11)(9月)信長、足利義昭を奉じて京都に入る。(11月)「天下布武」の朱印の初見
1569(永禄12)(1月)三好三人衆が本圀寺の将軍義昭を攻めるが敗退。信長が堺を屈服させ、尼崎を焼き払う。(10月)足利義昭と信長が不仲になる。上洛中だった信長は岐阜に帰る。側近の手によって関係は修復され、五ヵ条に及ぶ契約が作成される

戦国時代のはじまりとされる明和の政変

今回は、織田信長が中央政治に進出する事になった機縁についてご紹介します。信長が足利義昭よしあきと共に上洛した直接の機縁となったのは、義昭よしあきの兄・足利義輝よしてる三好三人衆みよしさんにんしゅうによって暗殺された事件(永禄の変)ですが、その淵源は、家臣の策謀によって第十代将軍・足利義稙よしたねが廃位に追いこまれた明和の政変にありました。この政変によって将軍家は二つに分裂します。

『織田信長』神田千里 著(ちくま新書)24 頁 に加工を加える

上記略系図に示される足利義稙よしたねを幕府の有力者であった細川政元が、他の諸大名と謀って廃位します。これによって誕生したのが、第十一代将軍・足利義澄よしずみです。家臣が主君を取り替えるという結末のために、下剋上を象徴する様な事件として認識されています。

廃位させられた足利義稙よしたねですが、その後も諸大名が馳せ参じる等、相当な勢力を誇っていました。こうして将軍家が二つに分裂し、足利義澄よしずみ義稙よしたね双方を支持する勢力が対立するに至り、畿内における戦国の争乱の大きな要素となったのです。

信長が中央政治に進出する機縁となった永禄の変

明和の政変を機縁に、将軍家と有力大名が二手に分かれて勢力争いをするのですが、第十三代将軍・足利義輝よしてる三好三人衆みよしさんにんしゅうに暗殺される永禄えいろくの変が勃発します。

義輝よしてるが暗殺された時、弟の覚慶(後の足利義昭)は奈良興福寺一乗院の僧侶となっていました。三好三人衆らは覚慶を幽閉しましたが、覚慶は朝倉義景よしかげ・細川藤孝ふじたからと通謀して脱出し、上杉氏、相良氏を始め諸国の大名に幕府再興を呼びかけます。この義昭の呼びかけに対して「供奉くぶ(おとも)」として申し出たのが織田信長でした。

つまり、織田信長は天下統一(全国制覇)のため自らの意思で上洛したというよりは、将軍家の家督争いに巻き込まれる形で上洛を果たしたのです。

参考箇所

✝ 将軍暗殺事件

織田信長が中央の政治に登場するきっかけとなったのは、永禄八年(一五六五)五月、将軍足利義輝が京都の御所で暗殺されるという衝撃的な事件である。三好家の当主義継を擁する三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)や家老松永久秀らの軍勢が、御所を襲い、義輝は奮戦したものの討死した。義継らは義輝に替えて阿波公方足利義栄を将軍に擁立しようとしたのである。

将軍が白昼御所で殺害されるというこの事件が、人々に与えた衝撃は大きかった。この頃信長は、自分の花押「麒麟」の「麟」をかたどったものに替えた。

麒麟は中国の伝説上の生物であり、最も平和な時代に出現すると考えられていたのである。中世史家の佐藤進一氏は、平和な世の到来を実現しようとする、信長の決意を物語るものとしておられる。現代人には、戦国時代には起りがちな下剋上の事件のようにみえても、当時の人々には、将軍の暗殺は決してあってはならない、ショッキングな事件であった。

将軍暗殺の背景を知るためには、少し歴史を遡って、日本がいわゆる戦国時代に突入した、一五世紀末からみる必要がある。この時期の、明応の政変とよばれる事件は、戦乱の時代の本格的な到来を告げるものとされている。これによって将軍家が二つに分裂したため、分裂したそれぞれを支持する勢力の抗争が、長期にわたって起ったからである。

明応二年(一四九三)、将軍足利義稙(義材・義尹・義稙と改名していくが最終名に統一)を、幕府の有力者であった細川政元が、他の諸大名と謀って廃位し、かわりに足利将軍家一族で、天龍寺の喝食であった香厳院清晃を還俗させて将軍に擁立した。こうして新たに将軍足利義澄(これも義遐・義高・義澄と改名していくが最終名で統一)が誕生した。家臣が主君をとり替えるという破天荒な結末のために、下剋上を象徴する事件とされている。

しかし、一旦は龍安寺に幽閉された足利義稙であったが、やがてそこを脱出し、越中国の武士神保
氏を頼り正光寺に居を据える。将軍の到来に、越前朝倉氏、能登畠山氏、越後上杉氏、加賀富樫氏など北陸の諸大名がこぞって馳せ参じ、中央にとっては侮りがたい勢力をもつようになる。こうして将軍家が二つに分裂し、足利義澄・義稙双方を支持する勢力が対立するに至り、畿内における戦国の争乱の大きな要素となったのである。

明応の政変の立役者細川政元は、後継者をめぐる争いの中で暗殺され、細川家もまた二つに分裂し抗争する事態の中で、永正五年(一五〇八)に足利義稙は、細川高国と大内義興を味方につけて将軍に復帰した。それでも将軍の地位は安定せず、やがて義稙は自ら出奔し、後継者の足利義晴も、義稙の養子であり兄弟である、足利義維と抗争することになった。

結局、義稙は阿波国に退去するものの、依然「四国室町殿」とも呼ばれ、紛争の核のままであった。三好三人衆が擁立した足利義栄はこの義稙の子であり、一方暗殺された足利義輝は義晴の子である。つまり義輝暗殺事件は、一六世紀を通じて断続的に起こった、二つの将軍家の存在がもたらしてきた紛争の一つとみることができるのである。

義輝が暗殺された時、弟の覚慶は奈良興福寺一乗院の僧侶となっていた。三好三人衆らは覚慶を幽閉したが、覚慶は朝倉義景・細川藤孝らと通謀して脱出し、上杉氏、相良氏を始め諸国の大名に幕府再興を呼びかけた。

翌年二月に還俗して足利義秋と名乗り、太刀など進物を天皇に献上し、五月には父足利義晴の法事を行い、兄義輝の一周忌を行った。義秋が後の将軍義昭である(義昭と改名するのはこの二年後であるが、以下義昭で統一)。この年義昭は幕府の再興を唱え、諸大名に、自分の上洛に「供奉」するよう促したが、この時供奉を申し出たのが織田信長であった(<永禄九年>八月二日足利義昭御内書案、『研究』上九三)。

『織田信長』神田千里 著(ちくま新書)22-25 頁

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