シャーペン ノート




前回「山田ルイ53世さんの言葉から」という記事を書いた。
毎日新聞の山田ルイ53世氏のインタビューを読んでふと思ったことを書いた。自分の中に引っかかっていることも書いた。
このブログ記事に対してなのかは分からないが、メッセージが届いた。

無理矢理にでも、自分の人生を肯定しないといけないってのは結構キツいですよね。
どうしても、自分の心の声を抑えつけるこたとになってしまうので。
自分の本当の感情に嘘をつきつづける人生というのは、苦しいですよね。
このようなメッセージだった。
このメッセージが、「(あなたのように)無理矢理にでも、自分の人生を肯定しないといけないってのは結構キツいですよね。どうしても、自分の心の声を抑えつけるこたとになってしまうので。自分の本当の感情に嘘をつきつづける人生というのは、苦しいですよね。」と伝えているのかどうかは分からないが、そうであるとして、話を進めてみる。
(それとも、メッセージを書いた人自身がそのような状態で、私に共感を求めているのか…。全く違うのか…。)

私のブログには無理やり自分の人生を肯定しようとしている態度が現れているのだろうか。もしそうだとすれば、それは誤解であると伝えたい。私は自分の人生を肯定も否定もしない。
私を否定する人はいるが、私を見て「自分はこんな風になりたくない」「そんな人生絶対嫌だ」と言う人がいてもいいと思う。ただ、事実と違うところは反論したい。

前回の記事について言えば、「善か悪かと言えば、悪ではない」と判断しただけだと自分では思っている。

私は本当の感情に嘘をついていない。今はキツくない。「三振」する前よりも気が楽になっている。ただ、親に対して「悪いことをした」という感情が僅かながらあったが、前回のブログ記事を書いている時に「悪いことではない」と自分で決めた。でもこれはまた覆るかもしれない。

人生については肯定する・否定するという考え方はなじまないような気がする。私にそのような感覚が無いのかもしれないし、肯定するということを理解していないのかもしれない。
ある時点で振り返ったときに自分で「幸せと感じるか、不幸せと感じるか」「楽しいか、楽しくないか」「苦しいか、苦しくないか」という評価は有ると思う。時点が変われば、それもまた変わるものだと思う。私の現時点で言えば、「概ね幸せと感じる、楽しい、辛いこともあった人生」と思っている。司法試験とは関係のないところで辛い思いをしたことはある。



山田ルイ53世氏は
『意味がないとだめ』という意識があります。そんな意識が、実は問題だと思います。
と語っているが、私も似たような考えを持っている。

私は、人生に意味など無いと思っているし、意味付けしようとするから苦しくなる人がいるのだと思っている。
人間は、生物としてただ生きているだけで、それでいいと思う。
ただ、肉体や脳を持っているために苦痛や快感が生じる。できれば苦痛は回避したいし、せっかくなので、生きている間は楽しく過ごしたい。

「楽しく過ごす」とは?
みんなそれぞれだ。それぞれの人生をそれぞれの方法で楽しんだらいいと思う。

司法試験に合格した人は、そのまま自分の意志を貫いて充実した生活を送るようにしていく。不合格の人で受験資格が無くなった人は、司法試験が楽しければまた挑戦すればいいし、楽しくなければ他の楽しいことをすればいいと思う。


以上