妻と話を続けた。

妻が神様に対し、良い意味で決心を捧げたことも聞いた。

その時、信じられないことが起きた。

私の頭や心に、温かいやさしい心が入り込んできて、聖書の言葉にある、神であるイエスキリストが私たち罪深いクリスチャンを許してくださっていることについてのたくさんのフレーズが、頭に走馬灯のようにめぐりに巡った。

私の心はただその思いに強く抱きつかれ、そのことだけが頭と心に残った。

そしてすぐに私の妻への愛が全く不足していることが示され、また具体的な場面もたくさん頭に浮かんだ。夫婦の喧嘩や不仲の原因は、私は妻の方に原因があると思っていたが、妻がそのように振舞ったのは私が原因となっていることが示された。だから、私にはそもそも裁く権利はないことが強く示された。

そして、聖書にある結婚の意義が頭に示された。結婚は、男と女がひとつとなるための契約であり、一度結んだ契約は何があってもふたりの協力で守り通し、途中で破棄などできないことも、多くの聖書の箇所を基に示された。

そして、イエスキリストと教会の結婚のフレーズも続いた。教会はクリスチャンの共同体である。クリスチャンも人間の故、悪いことはし続けてしまうが、イエスキリストはそんな私たちはあきらめず、根気よく愛をもって教えられ、彼に近づいていくよう常に働いておられることが心に浮かんだ。

片方だけの努力でよりよい結婚への成長は実らない。
イエスキリストとの結婚も、クリスチャンが日々信仰がなければ、成長はしない。私たちはロボットではないので、自動的に神によって、よくなっていくことはない。私たちが神に近づいて信仰(信じるだけでなく、行動を起こす)が必要である。

それらのことは心で整理され、そして同時に、心は平安と喜びで満たされた。

神様がこの瞬間に強く働かれていることを理解し、感謝を捧げた。

そして、妻にこのことを話し、お互いに再起を同意し、神に祈った。

心はとてつもなく傷ついたが、同時に神様から力強い励ましとあわれみをいただき、嬉しさが残った。