無の場所 | Eden

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時に理不尽でも尊いもの、それが人生。

命にとっての世界を生きていく源を湧き起こしてあげられるような存在として在ることを心掛けています。

最初は全てが無だった。


現代の人間が感じ取っているような現実は何も起きていなかった。




そこには基準や価値観が存在していない。


優劣も、美しさも醜さも、比較も善悪も存在することはなかった。




暴言、暴力、無能、犯罪、不倫、ニートといった、


現代にとって非道徳的な行為。




優しさ、立派、偉業、貢献、奉仕といった、


現代にとって道徳的且つ殊勝な行為。




元々はそんな分離視点を作って物事を見ることもなかった。




基準や価値観がなければ感情や判断も生まれない。


ただそこに現象が生じて在るというだけだった。




いつしか命が基準や価値観を抱くようになり、


感情や比較や判断が生まれるようになり、


道徳的、非道徳的、幸運、不運、


好ましい結果、好ましくない結果という時間を作り始める。




その積み重ねによって多様な基準や価値観が分離しながら誕生して、


次の世代に受け継がれていき、今が形作られている。




しかし、皮肉にも、その基準や価値観に固執したり、


それらを振り回したりすればするほど、その反作用として、


自身の視界に非道徳的だと感じられる現象が発生する傾向が強まる。




その基準や価値観から外れるものを認めない視点が、


「やっぱりそれは意に沿わない」と改めて確信的に感じさせられて、


淘汰したくなるような現象を招いて繋いでいる。




これは自ら形成した基準や価値観によって起きている


自滅行為と言っても言い過ぎではないが、


全てが無だった時の感覚や世界との一体感が深まれば。




自身が楽に緩まって生きられるだけでなく、


誰かを緩めて存在させてあげられる範囲が広がる作用や、


その質も高まる作用が生じたり。




人が非道徳的だと感じている現象や、


その現象からのストレスが消失する作用が生じたり、


世界が更に穏やかに息衝く要因の一つくらいにはなる。




見方によっては、無だった時の感覚や世界は、


自分をはっきり持っていない面白みのない存在として判断されそうだが、


このような姿勢によって深い喜びを届けられる体験も起こってきた。




もし気分を害するような出来事が起こった時は、


無だった時の感覚や世界として存在できる質が深まるように扱って、


長閑な世界線と時間がより生まれるように心掛けてみると、


世界により一層自然調和が起きてくるだろうか。

 

 

 

 

あっ、ちなみに、今はこんなこともやっています。

http://ameblo.jp/refrain-against/

https://eden-soran.booth.pm/

https://darkness-of-the-mind.themedia.jp




興味があれば、覗いてみて下さい。




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