↑こういうことを考えてるってのは、ええ、たぶん私、時間に関してケチなんだと思う。
だけど時間は、そもそも所有できないはず。
所有できるものは、せいぜい「思い出」くらいのもの。
それだって持ちすぎれば、今生きるエネルギーを奪われてしまう。
もしかしたら、写真を見ながら昔の思い出に浸るより人生に楽しみはないって状況もあるかもしれないけど。
じゃ、「時間を奪われる」って、どんな状況?
自分のためにではなく、他人のために時間を使うってこと?
(私の父はたぶん、そう考えてて孤独な人生を送っている)
いいや、たとえば庭にやってくる鳥たちに餌や水をあげるのに時間を使うのは、ちっとも奪われていると感じない。なんなら、楽しみ♪
たとえば、一方的に長々と、私が聞きたくもないことを私にしゃべりまくられると、
疲れるし、「時間を奪われた」と思う。
↑そういう状況ですら、「相手の役に立っている」と感じられたら、「時間を奪われた」とは思わない。
そう思うようになったのは、「私が聞いても聞かなくても状況はまったく変わらない」つまり、べつに役に立ってるわけでもなくて、話し相手は実は誰でも、なんなら猫でもいいとわかってしまってからだ。
家事は? 毎日毎日やってきて、もうどうしていいかわからない、という料理や掃除は?
生きていくために自分に必要だと思えたら、「時間を奪われた」とは思わない。
じゃ、他人のお世話は? 夫だけが好きな料理を作るとか?
自分が他人のために~してあげたい、と思っている限りは、「時間を奪われた」とは思わない。
夫が喜んでくれたら、私も嬉しい。
てことは、「時間を奪われた」と感じるのは、
自分が他人のために~してあげたいと思えない時。
自分が忙しくて、他人なんか構ってる場合じゃない時や、
相手がなんにも反応がなくて、相手のためになってると思えない時、
~してあげないとマイナスな反応が返ってくる、という形で、そうするよう強制されている時。
結局、
自分がやりたくないことをやるように他人から強制されている時、
「時間を奪われた」と感じるらしい。
としたら、本当に奪われているのは「時間」じゃない。
自分で自分の行動を決める「自由」だ。