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免許状→推挙状の“責任”は彦山翁にも

2024-03-09 21:24:56 | 日記
 彦山光三59回忌に因んでライフワーク
『橫綱傳』(昭和二八年末刊)の問題箇所
を俎上に載せてみたい。
 
〔前略〕昭和二十六年春場所中、〔吉田〕
司家代表者と〔大日本相撲〕協会との
あいだで十分話しあったうえ協定が成立
して、そのおり とりかわした「覚書」〔中
略〕なるものの原案はこの私が作成した
のであって、数項にわたっているが眼目
とするところは、
 一、横綱をもって大関以上の最高地位と
し、協会がこれを決定すること。
 一、横綱の授与式は東京でおこない、
司家の代表者が臨席して「故実」とともに
授与すること。
の二項目に要約することができるであろう。
〔中略〕
当時協会側一部の鼻息は甚だ荒かった。この際
七面倒くさい司家との関係を断ちきって
協会独自の立場で処理することにしようじゃ
ないか、それが民主的というものだよ、こっち
から逆破門といくか━などと極言するものも
あったくらい。それをこの程度におさめることが
できて内心得意だったところ、第二項は漠然、
横綱の授与式云云と書いたのが禍根になり、
肝腎な「免許」が無慚にも幽霊あつかいされた
のには、本当に開いた口が塞がらなかった。
従来も、授与式の内容が、「免許状」「故実の
巻」「横綱」など、まとめて授与する慣わし
━「免許状」も授与に含まれていたのをそのまま
踏襲したのは、たしかに私の手抜かりであり、
はっきり「免許」と明記すべきであった。〔後
略〕
 簡単に批判すれば、東冨士までの「免許状」
が、千代ノ山以降の「推挙状」に“すりかえ”
られた重大“責任”の半分は、当時協会嘱託の
彦山光三自身にあった━と云うことになりそう。
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