The Essays of Maki Naotsuka

オンラインエッセー集

51 エミール・ゾラに関するノート (1)ゾラの凄さと限界 2012~2016

エミール・ゾラ(Émile Zola1840年4月2日 - 1902年9月29日)
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

エミール・ゾラについて、ウィキペディアより引用する。

エミール・ゾラ(フランス語: Émile Zola1840年4月2日 - 1902年9月29日)は、フランスの小説家。

自然主義文学の定義者であり、代表的存在でもあった。代表作品は全20作から成るルーゴン・マッカール叢書で、著名作は『ジェルミナール』『居酒屋』『ナナ』。

生涯
ヴェネツィア出身の技術者である父とフランス人の母との間の1人息子として、1840年にパリのサン=ジョゼフ街(fr, 現在の2区)10番地で生まれた。父が指揮をとる運河工事のために、一家は1843年に南仏エクサンプロヴァンスに引っ越した。しかし父は1847年に亡くなり、残された家族は苦しい生活を送った。

1858年にパリに戻り、現在の6区にあるリセ・サン=ルイでバカロレア(大学入学資格試験)に向けた準備をし、後の科学的、医学的発想の源となった当時の歴史家、現代作家ジュール・ミシュレらに影響され科学系バカロレアに二度挑戦するも、二度失敗する。1862年から出版社アシェット書店で働き始め(配送部に入社。後に広報部に移動)、実証主義的著作を多く扱うこの出版社で働く中で、少年時代からのロマン主義的な傾向を捨て、詩作から小説への方針転換を果たす。1865年から本格的に評論を手がけ始め、エドゥアール・マネなどの印象派の画家を擁護する批評を発表した。1866年にジャーナリスト、作家として生計を立てていく決断をし、アシェット書店を退職した。……(後略)……*1

 

ゾラの書簡集から、ちょっと抜き書き

図書館から借りたゾラの書簡集から、ユイスマンス宛の手紙にある助言を抜書きしておこう。実は、ユイスマンス研究をするつもりでカテゴリーまで作ったが、すぐに興味が失せてしまい、やめてしまった。

ユイスマンスの宗教や神秘主義に対する取り組みかたには甚だ偏りがあると思う。そこに興味を惹かれる人々もいるだろうが、わたしはさほど興味が持てない。

オカルトをデモーニッシュな崇拝と同義語扱いし、さらにそれを安直に神秘主義と結びつけてしまうという大罪を彼は犯したとわたしはみている(そこからユイスマンスは、キリスト教に認められた霊的現象をのみ別格に位置づけようとつとめた)。絢爛豪華な文体は凄いと思うが。

次に引用するユイスマンス宛のゾラの助言は文体に関するさりげないものであるが、文体が内容を映し出す道具としての側面を持つものであることを考えると、これは内容に対する助言とみることもできる。

バルザックユゴー、ゾラが世を去ってから、フランス文学は総合性を喪失し始めた。趣味性を強めるようになった、あるいは姿勢が違ってきたというべきか……。

 私のごく率直な意見をお望みであれば、あなたの作品はもっと素直に書かれたほうがよいと思います。十分豊かな文体をお持ちなのですから、文体を濫用する必要はありません。文体の力強さは言葉の色彩ではなく、その価値によって得られるべきだというのが私の意見です。私たちは皆、世界をあまりに暗く、そしてあまりに悲観的に見ています。
 それはともかく、あなたのご本を拝読して嬉しく思いました。間違いなく、あなたは明日を荷う小説家の一人です。現代の文学的貧困のなかに、あなたのような新進作家は大歓迎されるに違いありません。

何とゾラは、人類史上、文学的に最も豊穣といえた時代にあって、「現代の文学的貧困」などといっている。

現代日本の文学をゾラが見たら、どういうだろう? 言葉をなくすだろうか? わたしのような作家の卵にしてみれば、ゾラのような作家のいる文学界をめざして研鑚を積むのと、文学界に対する違和感と失望感に苦しみながら、潰されてなるものか、という必死の思いで独自の文学修業を行わざるをえないのとでは、当時の作家の卵とは置かれた環境があまりにも異なる。

次の引用は、ゾラがポール・ブールジェに宛てた手紙の一部である。ポール・ブールジェはバルザックに関する論説記事を書いた。その内容に対する批判である。

あなたはバルザックを、まるで彼が自分自身を判断するように判断しています。確かに彼は巨人ですが、どうして彼の陽気さや天真爛漫さまで取り除くのでしょうか。あなたはバルザックの偉大さを強調するのではなく、彼をうまくまとめています。……(略)……まあ、人間はいつでも彫像よりは偉大です。あなたは彫像を示しました。私としてはあなたの描くバルザックがもっと善良で、とりわけ等身大であることを望みます。つまりも最も幻想的な人間の一人であり、想像力に欺かれた最も誉れ高い人間の一人だったということです。

マダムNの覚書 2012年11月18日 (日) 15:54 

 

資本主義社会の問題点を早くも分析し尽くしている『ボヌール・デ・ダム百貨店』、『制作』からわかるゾラ文学に欠けている重要な要素。

エミール・ゾラ(吉田典子訳)『ボヌール・デ・ダム百貨店―デパートの誕生(ゾラ・セレクション) 』(藤原書店、2004)は、デパートの魅惑的かつ危険な生態(?)を見事に捉えた作品である。

1883年(明治16年)もの昔に発表されたとは思えない新しさを感じさせる作品だ。このときゾラは既に、資本主義社会の問題点を分析し尽くしていたことが作品からわかる。

エミール・ゾラ清水正和訳)『制作(岩波文庫上下) 』(藤原書店、1999)は、印象派が世に出ようと苦闘していたころのフランス美術界を連想させる迫力のある作品で、芸術の深淵とその怖ろしさをも印象づけられ、読後呆然となった。

ただ芸術を描いたにしては、この作品には肝心のものが欠けている気もする。

バルザックがペンで捉えることに成功した高級霊性とそこから来る恩恵ともいうべき芸術の醍醐味そのものがきれいに抜け落ちているために、芸術家の真摯な苦闘もどこか馬鹿馬鹿しい徒労としか映らず、戯画的にしか読めない物足りなさがあるのだ。

ここのところがゾラの限界を感じさせるところでもあるように、わたしには思える。

ゾラは自然科学の手法を文学に導入した自然主義文学を提唱し、ヨーロッパに一文学潮流を創り出した。

社会の断面図を見せてくれるような作品を書くゾラの創作姿勢はジャーナリスティックで、明快な写実性を特徴としている。だから『制作』は長編だが、読みやすくて、少しも長いとは感じさせない。

そういう意味では、ゾラとモームには共通点がある。

生まれた順に記せばバルザックゴーゴリ、ゾラ、モームとなる。全員が優れた写実性を特徴としているが、着眼点に違いがある。

ゾラは、後期印象派の画家セザンヌと親交があった。『制作』にはセザンヌが投影されているようだ。

ゾラのこの作品もゴーゴリの『肖像画』同様、リアリズムと幻想性の融け合った作風で、芸術の魔性に迫っている。ゴーゴリの作品ではその魔性が悪魔的なもの、ゾラの作品ではバッカス的(ここでは退廃的エロス)だ。

ゾラの作品にはわたしはいつも作りすぎの印象を受けるのだが、サロン落選展の描写などは圧巻である。

訳者解説によると、小説『制作』を贈られたセザンヌ儀礼的な礼状を最後に、ゾラとの交友を断ってしまったということだ(それはそうだろう、セザンヌとクロードは芸術性という点で似ても似つかない)。

1902年のゾラの急死の報に、セザンヌはひどい衝撃を受け、その後倒れるまでの4年間、『大浴場』『サント・ヴィクトワール山』の連作に没頭し、完成させたのだった。

2022年5月30日の追記ウィキペディアエミール・ゾラ」にわたしの知らなかった次のような新情報があった。

『制作』(1886)の中で、セザンヌをモデルの一人とした主人公クロードの悲惨な生涯を描いたことで、セザンヌから絶交されたと一般に考えられてきたが、より後年の交友を示す手紙(新著『大地』へのお礼と「君がパリに返ってきたら会いに行くよ」との内容)が2014年に発見され、再考が求められている。*2

マダムNの覚書 2015年7月18日 (土) 17:04、マダムNの覚書 2017年8月20日 (日) 20:03 


ゾラの凄さがわかる『夢想』『生きる歓び』。

ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」シリーズの『夢想』と『生きる歓び』を読んだ。どちらも凄かった!

 何がって、『夢想』では、『黄金伝説』というキリスト教の伝説集を読んで空想するヒロイン、アンジェリックの怒濤のような妄想ぶりが、もう圧倒されないではいられない。

『生きる歓び』では何といっても出産のシーンが抜群の筆致で、わたしも出産に立ち会ったような気分になり、どっと疲れて読後は横になったほどだった。

産婆だけでは無理な状況となり、医師が呼ばれ(医師がなかなか来ない)、赤ん坊の手が先に出てしまうのだが(そこに辿り着くまでが相当に長い)、医師がそれをどう処置するのか、産婆になる勉強をしているみたいな心境になった。

最後は汚物が迸って赤ん坊が出てくるところまで(今の日本では下剤など使って、あらかじめ腸管内の排泄物を除去していることが多いと思う)、微に入り細を穿ち……読んでいて気分が悪くなるほど、専門的であり、また写実的なのだ。後産のことまで詳しく書いてあった。昔は出産で亡くなる人も多かったというのが、何か産婆的観点から(?)理解できた。

出産がどんなものか知りたいかたにはオススメだ。たぶん、人間も牛も同じだ。わたしも2人産んだけれど、出産がこんなものなのだと初めて知った。出産の当事者であるからといって、出産全体のことなどわかりようがないのだ。

勿論、出産は小説の中の一出来事にすぎない。

赤ん坊の描写の生々しさ。下手をすれば、ちぎれた肉の塊になるところだった赤ん坊は何とか無事に生まれる。そして生まれてみると、何事もなかったかのように……。

ゾラの作品にしてはどちらも気軽に読めると思って借りたのだが、ゾラはそんなに生やさしい御方ではなかった。ゾラの筆力に改めて参った。

マダムNの覚書 2015年9月23日 (水) 19:14

 

ゾラ(國分俊宏訳)『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家 ゾラ傑作短篇集 (光文社古典新訳文庫)』(光文社、2015)

ルーゴン・マッカール叢書で有名なゾラだが、「オリヴィエ・ベカイユの死」「呪われた家」という作品タイトルは初めて見た。

地上界を中心に、地獄界から天上界まで描き尽くした感のあるバルザックほどの満足感は望めないが、ゾラの綿密な取材に裏打ちされた、人間社会の断面図をまざまざと見せてくれるエネルギッシュな諸作品は、これまでに読んだどの作品も重量感ある見事な出来映えだった。

図書館の返却日が迫っていたため、収録作品の5編中3編だけ読んだ。ジャーナリスティックな社会派長編小説の名手として名高いゾラだが、ストーリー展開に重きを置いた簡潔明瞭な短編小説にはまた別の魅力があって、賞応募の場合の参考になりそうである。

わが国の文学賞には否定的な考えを持っているので、なるべくなら応募を経ずに社会に出たいものだが、まあ応募しようとしまいとあかい文学界でのデビューは所詮は叶わぬ夢であろう。

わたしが読んだのは「オリヴィエ・ベカイユの死」「ナンタス」「シャーブル氏の貝」。これら3編は描写の精緻さ、筋の運びの巧みさ、落ちの見事さですばらしい読書体験を味わわせてくれた。

ただ、わたしにはさほどの余韻が残らなかった。いや、映像としては鮮明な場面が蘇ってくるのだが、内面的なものは――人物の感情、気分、考えといったものは克明に、しばしば激しいタッチで描かれているにも拘わらず――ぼんやりとしか蘇ってこない。

それと対照的なのがバルザックである。映像的には混乱を来す場合があるほどで、錯綜した曖昧なイメージとしてしか思い出せないことも多いのだが、人物の内面世界が読者であるわたしも一緒に体験したことのように鮮やかに蘇ってくるのだ。とりわけ、書き込まれた豊かな情緒が香しく蘇ってくる。それは、いつまでも消えることのない花の香りのようだ。

両者がどこに力を注いで作品作りをしているかがよくわかる。時代の資料的価値は双方が持っている。それくらい、長編であろうと短編であろうと、その時代の描写が丹念になされている。

「オリヴィエ・ベカイユの死」は仮死状態(?)で埋葬された男が墓地から生還する物語である。

カバーに「完全に意識はあるが肉体が動かず、周囲に死んだと思われた男の視点から綴られる」とあったので、ポーのゴシック短編「アッシャー家の没落(The Fall of the House of Usher)」を連想したが、そのような怪奇物ではなかった。

読み始めてしばらくすると結末が憶測できたが、それでも面白い。そこに至る経緯が迫力ある筆遣いで逐一報告されるため、ドキュメンタリーのような臨場感があるのだ。

「ナンタス」は、青年ナンタスが社会的成功を収めるにつれて深まる不幸と、それがどんな結末を迎えるかに焦点を絞って描かれる。

物語は、仕事が見つからないために絶望して自殺を考えるナンタスにある奇妙な提案が持ち込まれるところからスタートする。

物語は超特急で進行する。ナンタスのストレートさ、情熱の一途さと、それに伴う人生の急展開は、解説に「おとぎ話」という言葉があるように現実離れしているが、読後感は清々しい。

「シャーブル氏の貝」はユーモアを籠めた皮肉なタッチで、洒落ている。実はコキュの物語なのだ。ゾラは様々な小道具に性的な意味を籠めている。

洞窟もその小道具の一つとして使われていて、それが何をシンボライズしているのかは嫌でもわかるが、下品さが全くなく、自然描写は限りなく美しい。

ゾラの出産の描写が真剣そのものであるために、読みながら産婆の見習いをしているような気になったと前述した。ここでも、ゾラはシンボリックな設定に悪戯っぽさを漂わせながらも、自然の造形への感動を籠めて敬虔なまでの真摯さで描いている。

そうしたところはバルザックにも共通したものがあり、自身の感動や驚きを読者と共有したいという強い思いと、書く行為に対する純粋さや責任感が感じられる。

「オリヴィエ・ベカイユの死」「シャーブル氏の貝」のいずれにもゲランドという町が出てくる。塩田で有名なあのゲランドだ。調味料売り場でゲランドの塩を手にとり、「ゲランドってどんなところなのだろう?」と思ったことがあったので、ゲランドを知ることができてわたしは満足した。

解説によると、今日のフランスで最も人気のある作品が「オリヴィエ・ベカイユの死」「ナンタス」「シャーブル氏の貝」で、中高生向けの読本などにもこれらがよく選ばれているという。

そうだとすれば、フランスの文学教育はすばらしいと思う。不屈さ、思慮深さ、情熱、大志、純粋さ、ユーモアに包まれたほのかなエロティシズム……といったものが散りばめられた瑞々しい作品を若い人々に与えようというのだから。3編はいずれも短い作品でシンプルな構造になっており、読書が好きでない生徒にも読みやすいだろう。

それに比べて日本の場合はどうだろう? 無意味な思索を強いて深読みさせる(原作に作品としての深みがないために)一方では、陰湿な情感の揺さぶりで落ち着きをなくさせるといった、偏向・変態性和製小説が多く生徒に与えられているように思えてならない。そんなものを推薦するくらいなら、ゾラのこの短篇集の感想文を宿題にするほうが格段にましだと思う。

マダムNの覚書 2016年1月13日 (水) 17:49