【坂上城】さかのうえじょう
【別名】高浜の砦
【構造】崖端城
【築城者】高浜氏
【築城年代】永禄年間
【指定史跡】ー
【場所】群馬県高崎市高浜町492 地図
坂上城は、箕輪城と鷹留城を結ぶ要衝の砦です。
長野氏の支配下にあった高浜氏は、武田氏の箕輪城攻撃の際の攻防戦として奮闘しました。
那波無理之助宗安率いる250の兵は、夜陰に紛れて雉子ヶ尾峠を越え、
雉郷城・里見城の防御線を突破して烏川を越え、明け方に高浜の砦を奇襲しました。
守将匂坂常陸長信は箕輪城にあって不在のため、高浜の砦は手薄のために落城すると、
宗安は高浜砦に火を放って東の白岩へ向かいました。
箕輪から馳せ向かった安藤九郎左衛門勝道と戦って討ち取りましたが、
続いて駆けつけた青柳金王(宗高)らに敗れて退却したと伝えられています。
江戸時代になると、坂上城の小暮繁信は徳川氏に従い
大阪夏の陣に参戦し、武功をあげると、城の鬼門にあたる場所に
高源寺を開基しました。
とりあえず訪れてはみたものの、宅地になっていて人目もあり
道幅は乗用車が入って行くにはちょっと厳しいほどの狭さです。
途中から車を降りて遺構らしきもの(堀・土塁)があることを確認だけして
あとは遠巻きに見て、この日の散策は諦めました。
令和4年1月4日登城
今回の参考本
【別名】高浜の砦
【構造】崖端城
【築城者】高浜氏
【築城年代】永禄年間
【指定史跡】ー
【場所】群馬県高崎市高浜町492 地図
坂上城は、箕輪城と鷹留城を結ぶ要衝の砦です。
長野氏の支配下にあった高浜氏は、武田氏の箕輪城攻撃の際の攻防戦として奮闘しました。
那波無理之助宗安率いる250の兵は、夜陰に紛れて雉子ヶ尾峠を越え、
雉郷城・里見城の防御線を突破して烏川を越え、明け方に高浜の砦を奇襲しました。
守将匂坂常陸長信は箕輪城にあって不在のため、高浜の砦は手薄のために落城すると、
宗安は高浜砦に火を放って東の白岩へ向かいました。
箕輪から馳せ向かった安藤九郎左衛門勝道と戦って討ち取りましたが、
続いて駆けつけた青柳金王(宗高)らに敗れて退却したと伝えられています。
江戸時代になると、坂上城の小暮繁信は徳川氏に従い
大阪夏の陣に参戦し、武功をあげると、城の鬼門にあたる場所に
高源寺を開基しました。
とりあえず訪れてはみたものの、宅地になっていて人目もあり
道幅は乗用車が入って行くにはちょっと厳しいほどの狭さです。
途中から車を降りて遺構らしきもの(堀・土塁)があることを確認だけして
あとは遠巻きに見て、この日の散策は諦めました。
令和4年1月4日登城
今回の参考本