むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

高天神城(静岡県)

2023年02月02日 | 続百名城
高天神城たかてんじんじょう
別名土方城
構造山城
築城者不明
築城年代1416年
指定史跡国指定史跡
場所掛川市上土方嶺向3136 地図
スタンプ設置場所大東北公民館(9:00~17:00)
城郭検定出題あり

桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、今川家は衰退しました。
その後、徳川と武田が攻防を繰り返し、1574年(天正2年)高天神城は武田勝頼により落城しました。
高天神城奪還のために徳川家康は、横須賀に砦として横須賀城を作り、
さらに高天神城を孤立させるために周辺を囲んで攻撃しようと6つの砦を築きました。
この6つの砦は「高天神六砦」と呼ばれ、
「小笠山砦」・「能ヶ坂砦」・「火ヶ峰砦」・「獅子ヶ鼻砦」・「中村砦」・「三井山砦」がありました。
この砦により、高天神城への補給路が断たれ、高天神城からの脱出も出来なくなりました。
すると兵糧も弾薬も尽き、覚なる上は全ての兵が城から討って出て激戦の末、全員討ち死にとなり高天神城は落城しました。



鳥居

「遠州を制せんとせば、まず高天神を制すべし、
高天神を制せずして、遠州を制すること能わず。」と言われる重要な城であったため、
徳川と武田が争奪戦を繰り広げていました。


搦手門跡

ここは、城の裏口である搦手門があった場所です。
先ほどの大きな鳥居は高天神城内にある神社のもので、
1601年(慶長6年)に横須賀城主大須賀出羽守忠政が造営しました。


案内図

こんな感じの山城です。
整備された遊歩道をどんどん登って行きます。


三日月井戸

三日月井戸の標柱が見えて来ました。



確かに三日月形の水溜まりがあります。
これは城内にある二つの井戸のうちのひとつで、礫層を染み出た水が自然に三日月形に溜り
三日月井戸と呼ばれるようになりました。



尾根に到着しました。
東西に道が分かれていますが、まずは本丸へ行って見ることにします。


的場曲輪跡

弓の練習場であったと推測され、この名が付いたものと思われます。


大河内石窟

この先に洞窟状の牢屋があります。
徳川家臣の大河内源三郎が武田に屈することなく勝頼の命に背き幽閉されました。
8年間もの長きに幽閉されていましたが、徳川家康が城を奪還し幽閉が解かれました。
家康から恩賞を与えられ、労をねぎらってもらいました。
後に長久手の戦いで討死しています。


本丸虎口

本丸の入口は枡形の虎口になっています。


本丸

近年の発掘で倉庫跡と思われる遺構も発見されています。
掘立柱建物跡と礎石建物跡の二種類が本丸北西で発見されました。


元天神社

現在高天神社は西の丸にありますが、最初はこの地にありました。
ここでは台風ごとに修繕をしなくてはならない状況だっため、
8代将軍徳川吉宗の代に西の丸へ遷宮されました。


御前曲輪

1934年(昭和9年)に、地元出身の軍医が私財を投じて
コンクリート製の天守閣(鶴翁閣)を建て、地元のシンボルタワーとしました。
天守閣(鶴翁閣)は落雷で焼失し、土台だけが残っています。
顔出しパネルがあったのでお約束の記念撮影(※お見せできません)はしましたよ😆


眺望



三の丸

小笠原与左衛門清有が大将を務めたことから与左衛門平とも呼ばれています。



三の丸に残る土塁です。


井戸曲輪

井戸曲輪には「かな井戸」があります。
鉄分を多く含む湧き水であることが
「かな井戸」と呼ばれる由来になったという説もあります。
武田信玄が城攻めの際に水脈を切ったために井戸が枯れたという。
次は左手に見える石段を登って西の丸へ。


西の丸

西の丸は岡部丹波守真幸が守備していたことから、
丹波曲輪とも呼ばれています。
こちらが先ほど行った元宮にあった高天神社です。


堀切

西の丸と馬場平の間の見事な堀切です。
西の尾根から攻めて来た敵を落とすここで防御するぞという意気込みが見えます!


馬場平

馬場平に到着しました。
見晴らしが良さそうです!



ここで馬の管理をしていたことから馬場平と呼ばれるようになったと言われています。
もしそれが本当であれば、馬をここまで連れて来るって…馬も人間も大変だったでしょうね。
実際は物見番所があった場所ではないかと推測されています。


眺望

奥の方に海が見えます。
眼下には高天神城を囲むように徳川軍の砦があります。
その動きをここから見ていたことでしょう。


甚五郎抜け道

天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の
武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方約一千米の尾根続きの
険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去りました。
そして、この道を犬戻り猿戻りと言います。


犬戻り猿戻り(甚五郎抜け道)

この先は、犬や猿でも引き返すという細尾根の難所があります。
登山ルートはまだまだ続いています。
時間が無いので、今回はここで井戸曲輪まで引き返すことにします。



井戸曲輪まで戻って来ました。
今度は、二の丸から北へ行ってみましょう。


二の丸

二の丸は発掘調査によって大きく三段に分かれていたことが判明しています。
建物や柵があったと思われ、焼けた跡のある礎石がみつかったことから
落城後に焼き払われたという伝承が、より現実的な話に近付きました。


袖曲輪



戦死者碑

堀切の間を下ると、正面に石碑があります。
「天正二年戦死者之碑」と刻まれています。


戦死の址

天正2年6月、堂の尾曲輪を守備していた本間・丸尾兄弟は、
武田軍の銃弾に当たり、討死しました。
この墓碑は1737年(天文2年)に末裔の本間惣兵衛が建てたものです。





切割

尾根伝いに攻めて来る敵を遮断するための切割(堀切)がされています。
曲輪の上から見ても、下から見ても見応えがあります。
ここでは井楼曲輪に向かって二ヶ所の切割が見られます。


堂の尾曲輪

ここで本間氏の武装が朝日に照らされ、それを目掛けて射撃されました。
弾は首のあたりに当たり、介抱虚しく命を落としました。
亡くなった兄に代わり、弟の丸尾氏が指揮を執っていたのですが
丸尾氏も銃弾を胸に受け、この日のうちに兄弟は亡くなってしまいました。


大東北公民館


続日本100名城のスタンプ設置場所になっています。



靴を脱いで、中に入らせていただきました。


スタンプ設置場所

スタンプを押して、御城印を購入しました。
すると、職員の方が説明をして下さり、二階へと案内してくれました。



武田方に落ちた高天神城を奪い返すため、
徳川家康が山頂から城を監視したと言われる楞厳寺山も見えるというので
この場所を案内してくれました。



掛川城へ行く時など、何度か入口近くを通過するたびに行かなくちゃと思っていて
なかなか時間を取れずにいましたが、ようやく登城出来ました。
山と言ってもしっかり整備されているので思ったより歩きやすかったです。
この日は三日月井戸を少し下ったところで、石壁から蛇が頭を出していて
目線の高さにいたので見つめあってしました。
にらめっこは私の勝ち!で蛇の方が去って行きました。
三日月井戸に住む神様だったのかな。。。

どうする家康では、高天神城の戦いはどう描かれるのか楽しみです。

令和4年3月27日登城







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