検証シリーズ 番外編 ~なぜ坂口征二はNo.2に徹していたのか!? | DaIARY of A MADMAN

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毎日、ROCKを聴きながらプロレスと格闘技のことばかり考えています。

偉大なるアントニオ猪木(敬称略)が天に召されてから、早くも四十九日が過ぎていった。

 

未だに「信じたくない」という気持ちでいるというのが事実だが、いつまでもそんなことは言っていられない。

 

当ブログでは数回にわたり、「猪木伝説」を検証してみたい。

 

 

その前に、私と猪木の出逢いを振り返ってみる。

 

もう50年近く前になる。何故かテレビで新日本プロレスの「ワールドプロレスリング中継」が毎週のように映されていた。当時、小学校の2年生くらいだ。自分が「観たい」とせがんだとは思えないのだが、親が好きだったとは聞いたことがないので、やはり私が望んだのだと思う。

 

最も古い思い出は、日本人と外国人の6人タッグマッチ。小柄な日本人レスラーが大きな外国人達に、反則攻撃や今で言うクイックタッチで蹂躙されていた試合。日本陣営はやられっ放しだったのだが、大きな赤いパンツの選手に代わると、その選手が外国人レスラーを蹴散らしていく。それが何とも格好良かった。

 

そう、坂口征二である。

 

たぶんタッグを組んでいたのは、星野勘太郎や山本小鉄のヤマハブラザーズ、あるいは木戸修か柴田勝久だったのかもしれない。でも小学生の目にはそういった“やられてばかりの選手” は目に入らず(失礼!)、赤いパンツの頑・・・じゃなくて、大きくて頼もしい坂口がお気に入りだったのだ。

 

しかし、見続けているうちに「いつも最後に出てくる」眼光の鋭い選手に惹かれるようになっていったのである。

 

時系列は定かでは無いのだが、ジョニー・パワーズとのNWF世界王座(当時)をめぐる闘い、ワールドリーグ戦におけるキラー・カール・クラップとの一連の死闘、レッド・ピンパネールのキウイロール、合わせて体重600kgのマクガイヤー兄弟との1対2マッチ、そして何より、サーベルを口に咥えた〇人、タイガー・ジェット・シンの登場により、猪木の魅力は爆発した。

 

シンにしてもマクガイヤー兄弟にしても、坂口までがやられてしまって、“最後の砦” に猪木が出てきて、やっつけるのだ。小学校低学年の子供にはそりゃあ格好良く映る。1970年代の猪木は心身ともに絶頂期だった。

 

しかし、今なら分かることだが、プロレスは一人ではやれない。

 

対戦相手はもちろん、その「猪木の相手」を光らせる存在があってこそ、「天下のアントニオ猪木」になれる。

 

 

そこで今回の検証は、坂口征二。

「セメント日本一」とも称されたエリート・アスリートはなぜ、猪木の“引き立て役” に甘んじたのか、を考えてみたい。

 

 

一般的に知られているのは、1965年に全日本柔道選手権に優勝、世界大会で東京五輪(1964年)金メダリストのアントン・ヘーシンクにあと一歩まで攻め込むが優勢負けで銅メダル。五輪での金メダルが期待されたものの、1968年のメキシコ五輪で柔道が競技から除外されたことを受け、目標を失った坂口は1966年、プロレス入りを決意する。

 

経歴・実力はもとより、ルックスと体格に恵まれた坂口は入団即アメリカ武者修行という超エリート待遇を受け、順調に出世階段を昇り始めた。

 

1971年暮れの「猪木追放劇」には、主要な登場人物としては名前が出てこないので、どこまで関わっていたのかは定かでないが、有名な「祝杯写真」(各自調査)には笑顔で写っている。リング上では馬場、猪木に次ぐNo.3の扱いだった坂口だが、やはりキャリア的にキーマンという立場では無かったことは想像が付く。

 

猪木が離脱後に「坂口など片手で3分」と坂口を挑発するも、「俺は3分とは言わない。15分で猪木さんをKOしてやる」と言ったとされるが、こういうところに“常識人” の片鱗が伺える。東スポなどのプロレスマスコミ向けのコメントではなく、本音でどう思っていたのかは、あまり語られていないような気がするが、どこかでインタビューされているのだろうか。

 

もしかしたら、猪木の退団を最も残念に思っていたのは坂口なのかもしれない。馬場は年齢的にも、まあ雲の上の存在だったろうし、年下ではあったが、一番身近な兄貴分というか。既に猪木との「黄金コンビ」で第2回NWAタッグリーグ戦に優勝しているし、1歳違い(坂口が上)の猪木と坂口はのちのジャンボ鶴田と天龍源一郎のように、お互いを刺激し合う関係になり得たように思う。

 

その馬場も全日本プロレスを設立するために抜け、繰り上げエースとなった坂口は「死に体」となりつつあった日プロを救うために、テレビ朝日の斡旋で猪木と接触、合併を画策するも大木金太郎を始めとする選手の大半の反対に遭い、失敗。子飼いとされる木村聖裔(健悟)と小沢正志(キラー・カーン)、大城大五郎の3人を連れて新日本プロレスへ合流する。

 

結果論になるが、この時の挫折で坂口のプロレス人生が半ば決まってしまったような気がしてならない。

 

会社の為を想っての行動が批判され、石もて追われるように会社を出ていかざるを得なかった。それもたった3人しか同調してくれず。(この3人も付き人だから仕方なく、の意味合いが強い) プロレスラーという人種、プロレス界という特殊な世界に絶望したことは想像に難くない。

 

馬場、猪木に次ぐスターとはいえ、最初に言ったようにプロレスは1人のスターだけではできない。権謀術数渦巻くプロレス界の人間関係の中、生き抜くためには「実力」だけではない何か。“カリスマ性” や清濁併せ吞むという覚悟など、いわゆるスポーツマンである坂口が自分に足りないものが「何か」を思い知らされたのではないだろうか。

 

思えば、力道山も馬場も他の世界で挫折を味わい、不退転の決意でのプロレ転向だった。猪木にしても、夢を描いて家族で渡ったブラジルでの艱難辛苦を経て、ようやく掴んだチャンス。スタート地点から他のレスラーとは違っていたのだ。

 

それに加え、新日本プロレスに入ってみたら、「副社長」という待遇ではあったが、「この会社は猪木さんと自分の2人でつくった」とい言わんばかりの山本小鉄、“懐刀” として猪木べったりの新間寿。レスラーも全員、猪木を崇拝する者ばかり。

 

その中で自分を前面に出していくには、坂口は大人過ぎた。そして、孤独過ぎた。

 

いつしか「猪木の引き立て役」に甘んじている自分に気が付いた時には、「永遠の二番手」という地位以外、何も残されていなかった坂口。ただ、それを悔しく感じられないくらい、猪木のスター性は抜きんでていたことも、また事実。

 

第1回IWGP優勝戦のハルク・ホーガン戦然り、時にはピエロを演じることも厭わない猪木と、どうしても自分を弱く見せられない坂口。「プロレス」という特殊な競技では、次第に差が広がっていき、競い合う相手ではなくなってしまった。

 

その分、「自分がしっかりしなければ」と思ったかどうかは分からないが、「ケチ」「融通が利かない」と選手の間でも評判が芳しくないようだが、やはり、その誠実かつ堅実な人柄は評価されて然るべき。坂口のような人がいなかったら、とっくに新日本プロレスは終わっていたと言っても言い過ぎではないと思う。

 

 

そもそも猪木とは性格が水と油だったものの、実は「坂口がどう思うか」を常に気にしていたという猪木。一方、生涯敬語で接し、猪木への敬意を欠かすことがなかった坂口。間に入る人のせいで、プライベートでは決して親しい間柄では無かったものの、近年では食事を共にする機会が増えたという。

 

一代の英雄、アントニオ猪木を支えた人間は数あれど、倍賞美津子と坂口征二の2人は、真に猪木が「頭が上がらない存在」の筆頭ではないだろうか。