新庄嘉堂残日録

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いつ、建設が始まったのか?−3 『書紀』記事の探索

2022年05月15日 | 7世紀古代史論
『書紀』天武紀上・下は藤原京あるいは新益京の建設を明示的には一切記事にしていません。何となくそう読めるような記事があるだけです。逐一、あげましょう。なお、天武紀上いわゆる壬申紀には該当する”らしき記事”はないのです。資料として利用したのは小澤毅と林部均の論文です。※注

 天武五年(676)是年、將都新城。而限內田園者、不問公私、皆不耕悉荒。然遂不都矣。 
 天武十一年(682)三月甲午朔、命小紫三野王及宮內官大夫等遣于 新城令見其地形、仍將都矣。
 天武十一年(682)三月己酉、幸于新城。
 天武十二年(683)七月癸卯、天皇巡行京師
 天武十三年(684)三月辛卯、天皇、巡行於京師而定宮室之地。

以上、わずかに五点の記事が挙げられています。しかも、考古学からの知見では前述しましたように、天武九年(680)以前まで条坊施工は遡ることがわかっています。とすれば、天武五年記事だけがまずは問題になりましょう。以降の記事は後で検討を加えることにします。この記事を簡単に釈義すれば
いま、新城に都を創ろうと思う。縄張り内の田園は公私を問わず、皆ことごとく荒れている。しかし、ついに都を創らなかった
でしょうか。つまり、創ろうとして止めたとなっているのです。しかし、『書紀』にはこれしか藤原京に関係しそうな記事は無いのです。そこで、研究者はこれをさまざまに解釈することになります。まず、「新城」が藤原京を指す、とするのです。根拠はないのですが、これしか無いから、というわけです。
ちょっと待って欲しいのです。これは『書紀』の記事です。これを藤原京のことだとして、建設の始まりを示すとおっしゃるのですが、『書紀』が明示的に指示しているわけではないのです。むしろ、持統四年の藤原宮の記事や同五年の新益京の地鎮祭の記事など、『書紀』がそれこそ明示的に記載していることを信じないで、無視しておいて、天武五年記事はそうは読めないにも関わらず、これが藤原京建設の始めだ!と『書紀』を評価できるんでしょうか?理解できません。書いてあることは信じないで、書いてないことを信じるという研究者の神経がわかりません。
確認しておきましょう。「新城」という語彙が何を指すのかは全く不明です。さらに、建設をはじめたのではなく、やっぱり止めた、となっているのです。つまりは、藤原京先行建設説の「いつから?」という問には全く答えななっていない記事であると言えるのではないでしょうか。わからんものはわからん、としておくのが研究者の研究者たる所以だと思うのですが。

※注
小澤毅「藤原京の条坊と寺院占地」2001『日本古代宮都構造の研究』青木書店2003 所収
林部均「藤原京の条坊施工年代」『古代宮都形成過程の研究』青木書店2001


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