「我慢した者が勝つ」
「受験は団体戦」
「勉強なんて嫌に決まってる」
勉強は間違いなく「楽しいもの」である。
知らないことを知り、できないことができるようになり、未知の世界への関心が高まり、未来を描ける。
それが勉強だ。
でもなんだか、勉強は嫌なもので仕方なくする、そんなのが当たり前になっている。
だれがそんな風にしてしまったのか?
「最近の生徒や学生は学ぶ意欲がない」
そんな風に人のせいにする前に、そもそも誰がそんなつまらないものにしているか、それを考えるべきだ。
先日、愛知県の中京大学を合格した高校生が感想を書いてくれた。
4月から小論文の指導をしていただき最初は自分がなにを言ってるのかわからない状態でしたが多面的な角度から問題を解く力を身につける事ができました。長坂塾に入って先生と問題に対して対話をする事で勉強の楽しさや考える事の楽しさを知りました。本当にありがとうございました。これからも挑戦し続けていきます。
この高校生は、指導してるいる時に何度も何度も、
「勉強が楽しくなってきました」
そんな風に話してくれた。
保護者の方はこのように話してくれる
「いつも遊びが優先の子が、1日中、勉強に励んでいるのにびっくりしました」
誰からも強制されず、我慢もせず、なにより「考えること」「勉強すること」の楽しさを知ってもらえたのは、きっと人生の大きな糧となる。
「勉強なんてみんな嫌に決まってる」
「勉強は強制的にやらせないと伸びない」
こんな言葉を発してしまう人は、教育に関わってはならない。
確かにそれは理想論かもしれないが、教える側が「勉強」や「学問」を楽しめなければ、学ぶほうが楽しいはずがない。
名古屋には中学受験に特化した小学校もあり、高学年になると「暗記」「暗記」「暗記」で我慢や辛抱を子供に強いる。
親も望んでいることかもしれないが、それはAI社会も含めて将来の糧に本当になるのだろうか。
少なくとも「社会」で、暗記ばかりさせて嫌いにさせないでくれよと思う。
そもそも「暗記」しなくても受験は戦えるし、歴史を好きにさせてくれてこそ指導者じゃないのかな・・・。
高校で「寝る」専門の授業が日本史なんて、なんて悲しい指導だろうか・・・。
昨日、お電話でその小学校の保護者の方とお話をしたが、保護者の方自身もその教育に疑問を持ちつつ、現実の受験を思うと仕方がないと思われている。
だからお電話で、クリティカルシンキング、クリエイティブシンキング、ロジカルシンキングの大切さと、その学びの楽しさをたくさんお話させていただいた。
その形での「社会」や「歴史」の学びは、大人だって劇的に「楽しい」。
高校の最近の評定の付け方は観点別評価になった。
評定なんかそもそも必要なのか、そう思う今日この頃で、大学のような一定の絶対評価で十分のような気がする、
これはなんでも画一的にしたい文科省の問題だが、それでどうして勉強が楽しくなるのだろうか。
学ぶことの原点とは、「楽しい」「好き」「面白い」「すごい」「感動」「喜び」「考える」「わかった」「希望」「夢」といったもっと感情的なポジティブなものであるべきだ。
大丈夫、それがあれば受験だってちゃんと乗り越えるし、将来の糧にもなる。
だから、覚えるでも知識の集積でもない、「考える」「楽しい」名古屋城や熱田神宮の青空歴史教室を続けている。
多くの教育者の賛同は得られないが、人がどうあれ、私はひとりになってもそんな教育を目指していこうと思う。