人生劇場という言葉があるように、人間は必ず老いて死に達します。
人間に限らず、動物すべては死に達するのですが、人間以外の動物は、死ぬことが分かりません。
死ということが分からず、考えることもありません。
全てはその場その場の感情で生きているので、お腹がすけば、食べ物を探し手に入れる、体の不調があれば、動かずにいたりする、
死が近づいても、死の恐怖はなく、ただ、体が動かない、立ち上がれない、その場に寝転ぶしかない中で、自然に死に至るのです。
人間の場合は、死の恐怖を感じたり、死に対して、行く末を考えたり、後始末をつけたりするでしょう。
人間は、感情を操ったり、考えることができる動物だからです。
人間は感情や意識が発達しているために、死に対してや相手に対してや自分に対して、いろいろな感情や思いを考えるからです。
どっちが幸せかというと、意識のない動物は、欲に任せて行動して、欲が満たされれば満足する、ということを毎日、何年も繰り返し、なんとなく年をとり、死になんとなく至ります。
人間は、自分はこれからどうなる、自分は何者なのか、何のためにこの世に生まれ、何故死が訪れるのか、など意識の感情によって考えるのです。
そして、結論が決まれば覚悟を決めて、思い残すことの無いように、死に向かいます。
このことは、一塊の個人として人間として生まれて来た一生のことですが、人間はカルマを拭うために何回も生まれ変わって、修行をさせられ、一生を終わるのです。
このことを知れば、たった一回きりの人生だったら、自分の快楽のため、欲のために、何をしてもかまわないという、人もいますが、大間違いなのです。
自分が犯した罪は、自分が犯した罪と同じ罪がカルマとなって、来栖に繋がるのです。
犯した罪が重ければ重いほど、生まれ変わってからは、辛い過酷な人生になるのは当然の義務なのですが、カルマとは知らずになぜ自分だけ辛い目に合うのかと思うでしょうが、前世の記憶は消されているので、今生きている状態しかわからないからです。
人間としてやってよいこと、人間としてやってはいけないことは、教えられなくとも、生まれた時から、本能で分かっているはずです。
人の嫌がることは全て罪なのです。
物心が付き、欲望が芽生えて、自分が満足するために、あれをしたい、これもしたい、これを手に入れなくては満足できない、これを達成したい、など欲望を満足するために、戦い、敗れると不安に駆られ、落ち込みますが、また新たな志を掲げ、難関にチャレンジしたり、人に迷惑をかけない程度で戦い、克服してた生還を味わい満足する、という繰り返しが、一か月、春夏秋冬、一年、二年、と年がかさみ、気が付くと、年をとってしまうのです。
年をとって気が付いたころには、人生の主着点に差し掛かるのですが、その時に、自分は自分なりに、人に迷惑をかけずに生きただろうか、ある程度自分の思いはできたろうか、と、振り返って感がえるようになるのです。
その時に人生が長かったか、短かったかを考えると、マンネリ化した、チャレンジをあまりしなかった、人生をよくするために努力をしなかった、何んとなき生きた、というような人は長く感じたでしょうが、一年一年その時その時に、チャレンジをして、それを乗り越えた人は、その時のことを鮮明に記憶をしているために、いくつの時にはこのようなことがあった、いくつの時には大変な思いをしたが何とか乗り切った、というように、10代、20代、30代、40代、50代、60代、70代、の記憶が鮮明にあるので、生まれてから今まで、すぐに年をとってしまった、短い人生だ。
というように、一年、10年、50年間の記憶が鮮明だと、短くも感じる人生なのかなと。
だらだらなんとなく生きた人は、なんとなく年月を重ねただけなので、なんとなく長く感じるのでしょうか。
人間は、修行を乗り越えるためとカルマを拭うためとことにしかできないことをするために生まれて来たのだという自覚をもって生きれば、素晴らしい、納得のいく、思い残すことの無い人生になるでしょう。
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施術を受ける心構えとして、何を差し置いても病を治したいという必死の心境が必要です。
無難になんとなく治したいというのでは奇跡の効果を与えることはできません。
命の危機感をもってください。