このブログは、閲覧数が少ないし、閲覧してくださる方々とはおそらく生きているうちに実際にお会いすることも、何かの利害関係が生じることも無いんですね。なので、人前でや家族にも言えないことも書いていいのかな。
と言う事で、今、心のうちにある気持ちをそのまま吐露しようと思います。
昨年の今頃、12月から3月まで抗癌剤治療を受けてました。その間は食欲がなくてコンビニのシュークリームとヨーグルトばかり食べてました(噛まなくていいし、飲み込むのも楽だから)。大腸にまだ小さい癌がいくつかあるので来月の内視鏡検査の時、それの切除で入院します。
ストーマ(人工肛門)は全く問題なくて普通の生活をしています。
これは問題のある言い方かもしれませんが、私の癌を切除した先生は、東京だから出会えた名医だと思います。医療環境では、東京は世界最高では無いでしょうか?
朝目覚めて身繕いをし仕事に出かけて、人と会ったり家族の事を気遣ったり色々備えたり将来のこととか、飼っているワンコやニャンコのことも色々心配したり。
今生きている人は、忙しすぎると思います。なんかもう少しのんびり暮らす術ないのかなと思います。
いっそのこと、生きることを諦めたら良いのかと思いますが、住民税、健康保険料、電気、水道代
いっぱい支払いもあるし。ウンザリですね。
息子がヤモリを一匹飼っています。
たまたま息子の職場に届いた宅配の段ボールに入っていたそうで、休み時間にイオンで飼育ケースを買って
家に連れてきました、4年前のことです。
2ヶ月に一度、Amazonで蛾の幼虫(餌、ミルワームみたいなもの)を買って、寒くないように温熱灯をつけて
狭くて暗いところを好むらしいので、身を隠せるものを置いて飼っています。
たま〜に、見えるところに出て私たちを見ています。
尻尾を振る訳でも、お手もしないし、可愛くニャ〜と泣く訳でもないのですが、丁度いいです。
死なれて悲しい思いをする位なら、ヤモリか金魚がギリギリかと思います。
偶然の幸せ(セレンディピティ)
母を東京に呼んだ後、頭の痛い問題は住み慣れた家の処分です。
この後、誰も住む予定がないので解体して更地に戻さなければなりません。
調べたらその費用は500万円ぐらいかかるそうです。
これからはもう住むことのない、帰ることもない家にそんなお金は使いたくない、長男として一番頭の痛い問題でした。
10月上旬のある寒い日、母はもう住まなくなるので塀などの壊れたところを知り合いの方に頼んで修理してもらっていたそうです。
たまたま通りかかった近所の建設会社の社長さんが、それを見て尋ねてきたそうです。
「この家はこれから人が住まなくなるので、外塀を修理しているんです」と言うと社長さんは
「それなら、この家売ってくれませんか?」
私が母を迎えにゆく3週間前のことです。
社長さんは、会社のそばに資材置き場と息子さんご夫婦の家を建てる土地を探していたところに、目の前にあったと言うことらしいのです。
助かりました。ただこういうことがあると昔なら、氏神様が助けてくれたとか言われそうですが
私はセレンディピティだと思っています。
一昨年の7月、青森の母から電話がありました。
「お父さんが死んだから、私は一人になった。一人で青森の冬は越したくない」でした。
一昨年の1月に老人ホームに入っていた父が亡くなりました。
青森に初雪が降るまで、後4ヶ月・・・老人ホーム探しが始まりました。
昨年の1月、入院して知ったのですが、この時私の直腸癌はステージ3a~bぐらいだったようです。
便秘と下痢と血便まであって、男性用のナプキンときつめのブリーフとボクサータイプのトランクスを重ねてはいて、その上にGパンを履いて外出していました。
そういう惨状を招いてしまった原因は、実は私は十分自覚していました。
私は、お酒が好きです、でもお酒で問題行動を起こしたことはありません、が止めたいとはずっと思っていて、アルコール専門の心療内科も何度か診察に行きました。
依存症の本も読んだし、依存症の本にしれっとイラストも描きました。
お酒を止めたくても止めれない私が選んだ考えは、「この体調が悪いのは、これは痔なんだ!」
「痔ならボラギノールで治る!」と思い込むことでした。
息子がまだやっと掴まり立ちが出来る様になった頃、青森の両親へのお披露目に帰省しました。
当時、東京への帰りは盛岡まで在来線の特急で盛岡からは新幹線でした。
特急の始発駅は青森市で私たちの町からは途中からの乗車になります。
時期はお盆、しかもその特急には指定席がありませんでした。案の定、列車は寿司詰め!
息子をダッコした私と妻、息子より3歳上の娘は客席の通路の人いきれの中身動き出来ない
状態で立っていました。
野辺地という駅で乗車して、暫くして八戸の前ぐらいだったと思います。
普段めったに泣かない息子が、あまりの不快感に耐えられずに泣き出しました。
それも私達家族も初めて聞くような大声でした。
デッキも人が一杯で、身動き出来ない私達は周りの視線を感じながらも立っているだけでした。
すると少し離れた対座の四人がけの、こちらに向かって座っていた男性が立ち上がって
「ほら、ここ座れ!」と青森弁で言いながら手招きしました。
お礼を言って母と息子がその席に座り、薄いバスタオルを息子にかけてやるとスースー寝息を立てて眠ってしまいました。
結局その人とは、それ以上はお話出来なかったのですが、今でも心から感謝しています。
そして最近思うのですが、うるさいな〜、と思う人も当然いると思いますが
「小さい子供には大変だし、泣くのもしょうがない」「あと30秒したら、私が席を譲っていたのに」
という人達もいたと思います。
子供は、あっというまにすぐ大きくなります。息子は今身長が180センチあります。
何かあったら、息子が私を抱き抱えてくれるでしょう。
私の実家が在ったのは青森です。
霊場恐山から車で30分、マグロでお馴染みの大間までは60分。
不便でしたがその不便さも全く感じず幸せに育てもらいました。電車は走っていません。
海岸沿いの細長い集落に道は、縦に串ざすように一本しかありません。
町に信号は一つあります、普段軽自動車がたまに走る程度のメインストリートに信号は必要ないのですが小学校のそばに、生徒の経験のために設置したと後に聞きました。
7月、近所の田んぼで蛍を採って部屋に戻って虫かごを開けて寝ます。夜中に目を覚ますと虫かごから
出た蛍が天井一杯に広がって光っていました。
霊場恐山の噴火の溶岩の上に出来た町なので、色々と伝承もあり町には死人の魂が恐山に行く道もあります。
続く・・・