連日
テレビから流れる
ウクライナの惨状は
目を 覆わんばかりだ
ウクライナの人たちに
想いを寄せたい
と思う気持ちは あっても
私に
何が できるだろう
アメリカに住んで
子育てに てんてこ舞いだった頃
もともと
片付けが 超苦手な 私
家は
荷物で溢れた
物置のようだった
そんな ある日
娘の友人の ママが
いい ハウスクリーニングレディを
知っているわよ
あなたに
ぜひ 紹介したい
と 耳打ちしてきた
我が家の 荒れ果てた様を
見て
他人事ながら
これはヤバイ
と 思ったんだろう
実は 当時
我が家の家計は 火の車
教育費を 親から借りるような
状況で
ハウスクリーニングを
頼む余裕なんて
一切 なかった
ん ・ だ ・け ・ ど
さすがに そんなことは
言いたくないし
実際
部屋が 散らかってることが
原因で
自分も イライラするし
夫とも 喧嘩になるし
とはいえ
現実に お金はない
だから
断るしか 選択肢はなかった
は ・ ず
な ・ ん ・ だ ・ け ・ ど
あの頃は 私
精神的に 色々
追い詰められてたんだよね
尋常ではない 判断を
して
2週間に一度 3時間
その ハウスクリーニングレディを
頼むことにしてしまった
彼女の名は イリーナ
ウクライナからの 移民だった
30代半ばの
ストレートな金髪の
スラリとした美人だった
モデルみたいだなあ
と思って 見惚れていたら
それも そのはず
彼女は かつて
国を代表する
体操選手だったそうだ
夫は 同じく
母国で有名な サッカー選手
そんな きらびやかな経歴を
捨てて
どうして 夫婦二人
何の生活基盤もない アメリカに
やってきたんだろう
ひとは
自分の常識でしか ものを見ない
だから 初めのうち
そのことが 不思議だった
イリーナが来るようになってから
我が家の 部屋の状況は
劇的に 改善した
私にも
見栄
というものが あった
いつも
イリーナが来る 前に
呆れられない程度に 片付けた
その後 その流れで
私も 一緒に 掃除をする
だから 終わると
家中 ピカピカになった
そして
実に 不思議なんだけど
イリーナとする 掃除は
掃除嫌いな私にとって
全然 苦ではなく
むしろ
毎回 楽しみだった
ふたりで 掃除をしながら
お互いの故郷である
東欧と 極東の話をしたり
夫の愚痴を 言いあったり
当時 私は
アメリカに永住するつもり
だったので
移民あるあるの 失敗談や
お役立ち情報の交換も
時々 時間が余ると
イリーナに頼んで
ウクライナの料理を
作ってもらった
その中でも
ボルシチは 子どもも大好きで
レシピを聞いて
自分でも よく作った
イースターになると
ピサンキ と呼ばれる
きれいなイースターエッグを
作って 持ってきてくれたり
街の ウクライナ祭りに誘われて
家族で行ったことも ある
そうして
親しくなっていく中で
私たちの会話も
少しづつ ディープなものに
なっていった
ある時
イリーナが 言った
私たち夫婦が アメリカに来てから
10年近く 経つまで
ウクライナに置いてきた 娘たちは
入国できなかったのよ
母と 姉が 娘たちの面倒を
見てくれていたけど
私は その間
一度も 母国に帰ることは
できなかった
一度 出国してしまうと
また 入ってこれるかどうか
わからないから
娘たちが 一番
母親を必要としていた
幼い時
私は
側に いてあげられなかった
そう話す イリーナの鼻先は
ちょっと 赤くなっていた
同じ母親として
その話を聞いて
私も 胸が潰れる思いだった
どうして こんな悲しいことが
彼女の身の上に起こったのか
それは つまり
こういうことだ
アメリカで生活したい人にとって
ビザの問題は 重要だ
日本人でも
もちろん 簡単なワケではないけれど
貧しかったり 政情不安な国のひとが
ビザを取るのは
もっと ずっと 大変だ
ビザで滞在できる 期限を
過ぎた後も
このひとは
不法滞在するのではないか
といった疑いをかけられると
ビザが 取れない
より 疑われやすいのは
一家での ビザ申請
だから
そういう国の人たちは
最初は 単身だったり 夫婦で
入国して
後から 家族を呼び寄せる
そういうやり方をする人たちが
いることは
聞いて 知っていた
ただ
この話は
20年近く 前のことだけど
その頃の 私は
無知だった
アジアでもなく
アフリカでもなく
南米でもない
ヨーロッパの国でも
そういう思いをする人がいる
ということを
想像できなかった
その
小学生の時アメリカに来た
娘たちも
中学生と 高校生になって
英語は すでに
イリーナより ずっと上手く
見た目
すっかり アメリカン
時々 イリーナと一緒に
わが家に来て
掃除を手伝った
難しい年頃なのに
親の仕事に ついてきて
しかも
一生懸命 働く
偉いわねえ
今日のお小遣いは
いくらもらう 約束なの?
私が 何気に そう聞いた時
彼女たちが返した言葉は
まったく 想定外のものだった
もらわないわ
ママは いつも 働いてばかりで
疲れているの
だから
ママに ラクしてもらおう
と思って 来てるんだもの
ひとは
自分の常識でしか
ものごとを 見ない
私は
自分の 想像力の無さが
恥ずかしかった
イリーナが育ったのは
キーウの 北
名前は 忘れてしまったけど
チョルノービリから
数十キロほどの 村だった
(今思うと 確かに イリーナは
ウクライナ語で
キーウ チョルノービリ
と発音していた)
小さな畑で 野菜を作り
家畜を 飼い
祖父母 親 子どもたち の
3世代で
暮らしていたそうだ
周りには
美しい森が 広がっていてね
毎日 そこに
子ヤギを連れて行って
草を食べさせてる間に
きのこや 花や
食べられる草を 摘むの
木漏れ日が当たると
キラキラ 光って
森が輝くのよ
私は イリーナから
そういった
自分の知っている 日常とは
かけ離れた
彼女の故郷の
童話の世界のような 話を
聞くのが 大好きだった
その村は
世界一 平和で
しあわせに 満ち満ちてる
そんなふうにすら 感じていた
イリーナから
あの話を 聞くまでは
ある日
森の向こうの
チョルノービリにある 原発が
爆発したらしい
と 噂になって
村の男達と一緒に
私のおじいさんも
数日 森を歩いて
様子を見に行ったの
あの時は
原発が どういうものか
村の誰も 知らなくて
おじいさんは 村に戻ってきて
すぐ 倒れた
一緒に行った 男たちも
同じだった
そして
何かが おかしい
そう 言い残して
1ヶ月ほどで 死んでしまった
その後
どこぞの国際機関が やってきて
聞き取り調査や
子どもたちに 血液検査が
盛んに 行われて
当時子どもだった 私も
何度か 検査を受けて
そして
私たち一家は 故郷を捨てた
遠い 東欧の国で
故郷を失った人が いた
福島原発の事故の
まだ四半世紀 前のこと
私が
日本に戻ってきて 14年
イリーナのことは
折りに触れ
思い出していたけれど
この春
彼女のことが 思い浮かばない日は
なかった
テレビでは 毎日
ぐちゃぐちゃに破壊された
ウクライナの街の様子が
流れる
その映像には
イリーナとよく似た
スラブ系の女の人が 映ってるし
そこからは
イリーナと同じ
ウクライナ訛りの 英語が
聞こえる
イリーナは
今も アメリカに
いるのかな
だとしたら
彼女が 欲しくて 欲しくて
でも 叶わなかった
アメリカの永住権を
手に入れることは できただろうか
惨劇に 晒され続ける
母国を 観ながら
イリーナ
今
あなたは 何を思う?
私は あなたに
何ができる?