◇
蛍光灯の明かりで廊下は隅々まで照らされていた。ドアは閉じられている。それを見つめていると背中が叩かれた。
「なによ、緊張してんの?」
私はドアに触れた。それは硬く、よそよそしかった。高槻さんはいつもの表情で私を見た。ドアノブを持ったまま私も高槻さんを見た。
「来たね」
「はい」
「大丈夫だった?」
「なに言ってんのよ。それは結月ちゃんの訊くことでしょ。横になってるのはあんたの方よ」
「いや、こんなのたいした傷じゃないよ。ま、脇腹だけはちょっとマズかったけどね」
手には包帯が巻かれてる。目の横には痣があり、頬にも擦れたような傷があった。私はしばらくその顔を見つめていた。
「じゃ、それ活けちゃうわ。そしたら私は下へ行くから、積もる話ってのをしてなさい。だけど、八時までだからね」
原稿を出し、私はベッドに乗せた。高槻さんは窓を見つめてる。雨はやんだようだった。
「はい、これでいいでしょ。それにしても立派ね。ほんと綺麗だわ」
昌子さんは口に手をあてながら出ていった。それからは紙を捲る音しかしなかった。
「うん、ここまでは悪くない。もっと熟れさせる必要はあるけど初めて書いたわりには上出来といっていいだろう。僕の口調もこんなもんだと思うしね。ただ、講義の内容は後で訂正させてもらうかもしれないよ。それでもいい?」
「はい」
高槻さんはベッドにもたれかかった。うつむいた目は微かに歪んでる。
「亀井くんには悪いことをしたって思ってる。これは本当だ。こうなったのも半分ほどは僕のせいなんだ。もっと早くいろんなことをはっきりさせとくべきだった。気づけてることがたくさんあったのに見ないようにしてた。それで起こったことなんだ」
「でも、それは、」
そう言いかけると顔が向けられた。頬は平面になっている。
「いま言おうとしたことだって抑制しなきゃならないよ。これをきちんとしたもの、日記じゃなく、小説にしたいなら感情的になっちゃ駄目だ。それに、この時点で持ってる印象とそれ以前のものは違うはずだ。だから彼について書くときも冷静でなければならない。経験を書くってのはそういうものなんだ」
目だけあげ、私は手を握りしめた。顔はわざとらしくしかめられている。
「痛いよ、強すぎだ。だけど、それだけ元気があるならよかった。――そういえば新井田さんからいろいろ聴いたよ。校長室であったことも事細かに教えてくれた。愛について君が声高に叫んだってね。君は僕の言ったことをそのままやってくれたんだ。一般的に間違ったとされてることでも信じたら声高に叫べってのをね。しかも校長室でやるとは大胆だ」
ベッドを離れ、私は窓の前に立った。雨はすっかりあがってる。雲が流れると月もあらわれた。
「質問してもいいですか?」
「ん?」
「これは文学に関する質問です」
「いいよ。どんなこと?」
「美禰子の自然は三四郎への愛だったんですよね? でも、それに背いた。だから美禰子は罪を感じつづけて生きていくことになった。これで合ってますか?」
「ああ、合ってる。僕が言ったそのままだ」
「もうひとつあります。『それから』にも自然に背いた主人公が出てくるんですよね? その人は自然を取り戻そうとして破滅する。相手の女の人は具合が悪くなって、主人公はわけがわからない感じになるって言ってましたよね?」
「そうだ。それも合ってる」
「高槻さんはどうなんです?」
「どうってのは?」
「その、混乱したり、後悔したりしてないです? 言ってたじゃないですか。『それから』の主人公は自然に従って幸せになったけど、すぐに苦痛がきたみたいなこと」
「『一刻の幸から生ずる永久の苦痛』」
声は平坦なものだった。私はその顔を見つめていた。風は窓を揺らしてる。高槻さんは手を伸ばし、唇を反らして笑った。
「大丈夫だ。混乱も後悔もしていない。わけがわからなくもなってないよ。とくに赤いものが目に入ったりしてないし、あてもなく電車に乗りつづけようとも思わない。僕は漱石先生を尊敬してて、その小説を愛してるけど、そこに出てる人間と似たような人生を送りたいとは思わない。それとこれとは別の話だ」
手は引き寄せられた。私はベッドに脚をぶつけ、前へ倒れこんだ。顔をあげると削ぎ落とされた顎のラインが見えた。反らした唇も目に入った。それは次の瞬間に薄くひらいた。私は目を閉じた。暗闇の奥になにかが揺らいでる。白いなにかだ。私はそれがなにか知ろうとした。そして、知ったときに目をあけた。
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