言語を過信してはいけない | ライプツィヒ日記

ライプツィヒ日記

大学生活やサッカーを中心にドイツのライプツィヒにおける日々を綴っています。

お久しぶりです!

最近になりようやくドイツ語にストレスを感じなくなってきました。
 
 
そんなタイミングで言語について考えることがあったのでつらつらと綴っていきます。
 
結論から言うと、、
テキストだけで人を評価するなんて馬鹿馬鹿しいってことです。
 
 
まず言語って何なのでしょうか。
 
僕はある対象を示すための記号でしかないと思っています。
 
そこで指し示される対象には目に見えるものも目に見えないものもあります。またその記号の定義は使用者の背景に大きく左右されます。
 
 
例えば、僕が高校生と主婦と年金受給者の4人で食事に行ったとします。そこでの会話は果たしてスムーズに進むでしょうか。なかなか難しいんじゃないかなと僕は思っています。
 
なぜなら生きてきた時代や環境が違えば同じ日本語だとしても使われ方が異なるからです。
 
少し極端な例だったかもしれませんが、このような言語感覚のズレというのはあらゆるところで生じえます。
 
幸いなことに僕たち日本人は多くが同じような教育を受けられるため、教育されている段階まではそのズレが最小限に抑えられているでしょう。ゆえにズレの存在にも気付きにくいと言えます。しかし、その後の異なる経験によって各々の辞書にある日本語の指し示すものが少しずつズレてくると僕は考えています。
 
それでも基本的には日本人同士、多くの場合はズレがあったとしてもコミュニケーションが成立します。そのズレは内容のやり取りにおいて大きな違いを生みません。
 
ただ、コミュニケーションの手段がテキストだけの場合、そこでのやり取りにおいて小さなズレが度々問題を引き起こします。
 
伝えたと思ったことが伝えられてない。
理解したと思ったことが理解できてない。
 
そんなことは往々にして起きてきます。
 
歩む人生が違えば、記号に当てはめられる意味も変わってくるのは当たり前。
 
僕たちはそのことを把握しておくべきです。
さもないと無駄なところで消耗してしまいます。
 
 
現実的に言語は完璧ではありません。
完璧でありうるのは全員が辞書通りの言語を扱った場合のみ。
 
だからこそテキストだけで人を評価するなんて本当に馬鹿馬鹿しいと思うわけです。
何か違和感を覚えたらまずはその真意を確認してみましょう。
 
 
もちろん各々が可能な限り万人に理解してもらえるように書く努力をする必要はあると思います。
ただ受け手の言語感覚がバラバラであることを前提として考えると、全員に同じように理解してもらうなんて不可能に近いわけで、、
 
 
言語を過信してはいけません。
テキストだけのやり取りでは尚更です。
 
 
と書きながらモロッコ人とのやり取りにおけるイライラを鎮めています。。
 
 
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