通州事件 ~ 1937年(昭和12年)7月29日

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第71回帝国議会 衆議院 本会議 第8号 昭和12年8月2日
通州事件に関する陸軍大臣の報告
杉山元(陸軍大臣)
今回通州に勃発致しました事件について申し上げます。ご承知のとおり通州は冀東(きとう)防共自治政府の所在地でありまして、治安維持には同政府の保安隊が任じておるのであります。元来この保安隊はわが方に好意を持っておりまして、7月27日、通州の城外に駐屯を致しておりまする第29軍部隊の武装解除を致しまする時におきましては、わが軍に協力をして解除に従事を致しておりまする。又塘沽(とうこ)の対岸大沽(たいこ)にありまする支那軍攻撃の時にも、わが軍と協同動作をしたのであります。

通州におけるわが居留民は、平時内地人約110名、朝鮮人約180名でありまして、わが駐屯軍は常に一小部隊を守備に任ぜしめておったのでありまするが、この事件が勃発を致しました当時は、居留民は約380名に増加を致しておりました。わが軍は守備隊その他を合わして約100名になっておったのであります。

7月29日駐屯軍は主力をもって北平周辺にありまする支那軍掃討を実施しておったのでありまするが、通州の守備隊が襲撃を受けて苦戦に陥っておるとの報告がありましたので、軍司令官は直ちに飛行隊を救援に出動せしめまして、通州付近の状況偵察ならびに支那軍爆撃に任ぜしめたのであります。しかるに30日に至りまして、軍司令官は通州の襲撃は冀東(きとう)保安隊の反乱であるということを知りまして、直ちに南苑の敵を追撃中でありました河辺部隊より一部を引き抜きまして、通州救援に急行せしめたのでありましたが、該部隊は30日午後4時過ぎに通州に到着致したのでありますけれども、敵兵は依然通州城に占拠しておりまして、これを撃攘しなければ市街内の居留民の状況を詳にすることが出来なかったのであります。かつ電信電話線はことごとく切断をせられ、無線通信も何らの応答なく、飛行機もまた天候および敵兵に阻まれて利用することが出来ませず、加うるに北平と通州間には敗残兵が出没を致しておりまして、連絡をすることが出来ませなんだ為に、状況不明で焦燥と憂慮の中に経過をしておったのでありまするが、31日夕に至りまして、ようやく居留民60名を収容し得たけれども、その他は不明であるということを知り得た次第であります。

その後到着を致しました諸報告を総合しまするに、居留民380名の中180名を収容することが出来たのでありまするが、その他は行方不明で目下捜索中とのことであります。今後生存者もかなり出て来るとは存ずるのでありまするが、相当数の者は暴虐なる支那兵の為に殺害をされたものと想像致しております。又わが特務機関は、細木中佐は生死不明であり、甲斐少佐以下7名は戦死でありまして、通州守備隊は戦死5名、負傷7名を出しております。なお真相は引き続き調査中でありまして、只今申し述べました事柄の中にも、事実と異なる点もあるかとも存ずるのでありまするが、取り敢えず只今までに判明致しました所を申し上げる次第であります。

本事件は慇汝耕(いん・じょこう)の最も信頼をしておりました教導總隊が支那側の煽動に眩惑されまして、第一、第二總隊の一部をも誘い込み、約3000名が寝返りをしたことによって惹起されたる兵変でありまして、全く予想し得なかった所であります。しかしながら無辜なる多数の同胞が暴戻残虐なる支那兵の手に掛かりまして、悲惨なる最期を遂げるに至りましたる事柄は、まことに残念至極で、最も遺憾とする所でありまして、この度犠牲になられた方々に対しましては、衷心哀悼の意を表するものであります。これをもって終わります。





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第71回帝国議会 貴族院 本会議 第7号 昭和12年8月3日
杉山元(陸軍大臣)
今般通州に勃発致しましたる事件について申し上げます。ご承知のごとく通州は冀東(きとう)防共自治政府の所在地でありまして、治安維持には同政府の保安隊が任じておったのであります。元来この保安隊はわが方に好意を有っておりまして、7月27日、通州城外駐屯の第29軍の部隊の武装解除を致しまする際におきましても、わが軍に協力を致しております。又塘沽(とうこ)の対岸大沽(たいこ)にある支那軍攻撃の時にもわが軍と協同動作をしたのであります。

わが居留民は平時内地人約110名、朝鮮人約180名でありまして、わが駐屯軍は常に一小部隊を守備に任ぜしめておったのでありまするが、この事件が勃発を致しました当時は、居留民は約380名に増加を致しまして、わが軍は守備隊その他を合わしまして約100名になっておったのであります。

7月29日午前3時過ぎに、わが通州守備隊は突如反乱せる冀東(きとう)保安隊の襲撃を受けましたので、直ちにこれに応戦いたしました。敵はその兵力少なくも2000名でありまして、守備隊の四周から攻撃して来まして、わが有線電信は敵の為に破壊せられ、無線通信もその用を為さざるに至ったのであります。わが守備隊は各兵舎および倉庫を頑強に守備致しますると共に、一部の出撃を行いまして、侵入致しましたる敵を撃退したのでありまするが、敵は午前10時頃より兵営周囲の土壁に拠りまして、砲兵、迫撃砲等を増加をして、射撃はいよいよ猛烈となりました。兵舎の一部は破壊せらるるに至ったのであります。しかしながらわが守備隊はこれに屈することなく、いよいよ士気旺盛に抗戦を続けまして、傭人(ようにん)まで銃を執って応戦したのであります。正午すこし過ぎ構内に集積をしてありました「ガソリン」に火を発し、又第一線に送るべき銃砲弾を積載致しておりました自動車も敵の砲弾が命中致しまして、17両を全部焼失致しまして、銃砲弾の自爆は約3時間にもわたっておったのであります。

当日わが駐屯軍の主力は北平周辺にありまする支那軍掃討を実施しておったのでありまするが、通州の守備隊が襲撃を受けて苦戦に陥っておると報告がありましたので、軍司令官は直ちに飛行隊を救援に出動せしめまして、通州付近の状況偵察ならびに支那軍の爆撃に任ぜしめたのであります。敵はこの爆撃によりまして一時沈黙したのでありまするが、夜に入りまして依然兵営周囲の土堤に拠りまして攻撃を継続をして、わが守備隊はこれに応戦しつつ夜を徹したのであります。

30日に至りまして軍司令官は通州の襲撃は冀東(きとう)保安隊の反乱であるということを承知を致しまして、直ちに南苑の敵を追撃中でありました河辺部隊より萱島部隊を引き抜いて通州の救援に急行せしめたのであります。わが守備隊は萱島部隊増援の通報を受けまして士気にわかに揚がりまして防戦これ努めましたのと、次いで実施をされましたるわが飛行隊の爆撃の甚大なる効果とによりまして、兵営四周の敵は漸次退却を始めたのであります。

増援に派遣されましたわが萱島部隊は30日の午後4時20分に到着致しまして、直ちに残敵を攻撃して市内の掃討を行い、ようやくにして各城門を占領することが出来たのであります。爾来私共は居留民の安否について非常に憂慮を致しておったのでありまするが、電信電話線はことごとく切断をせられ、無線通信も何らの応答なく、飛行機もまた天候および敵兵に阻まれて利用することが出来ませぬ。加うるに北平、通州間には敗残兵が出没致しまして連絡をすることが出来なかった為に、状況不明で焦燥と憂慮の中に経過をしておったのでありまするが、31日の夕方になりまして、ようやく居留民60名を収容し得たけれども、他は不明であるということだけを知り得たのであります。

爾後種々真相の調査に努めたのでありまするが、現地におきましては敵の行動、天候、地形等に妨げられまして、人を派遣することも出来ず、鋭意努力の結果、ようやく昨2日飛行機にて通州に赴きましたる軍司令部の幕僚の報告によりまして、概ねその真相が判明致しました次第であります。これによりますると、わが居留民は市内各所に散在しておりまして、事件の勃発しまするまでは何らその徴候を認めませぬでおりましたので、おのおの自宅に居りましたる為に敵のほしいままに襲撃する所となりまして、多数は殺害せられたもののようでありまするが、中にはよく敵の手をのがれて守備隊へたどり着いた者もありました。敵はわが居留民に対しまして、言語に絶する暴虐なる行動をあえて致しまして、その大部分を城門外に拉致致しまして、これを惨殺をし、その残忍なる行為は誠に耳目をおおわしむるものがあります。昨2日衆議院におきましてわが守備隊に収容せられましたる居留民は、約180名と申したのでありまするが、昨日の調査の結果によりますると、2日の夕刻までに収容し得ましたものは内地人が男40名、女20名、子供11、鮮人が男14名、女21名、子供18名、合計124名でありました。その時までに発見収容致しましたる死体の数は約130であります。なお残余の者の行方は未だ不明であります。

わが特務機関は29日午前3時頃敵の襲撃を受けましたので、細木機関長は冀東(きとう)保安隊を自ら慰撫鎮圧せんと致しまして、冀東(きとう)政庁に赴きまする途中に、政庁前において悲壮なる戦死を遂げたのであります。又機関員一同は甲斐少佐の指揮の下に防戦に努めましたが衆寡敵せずその大部はついに壮烈なる戦死を遂げたのであります。なお守備隊その他の死傷は、戦死18名、負傷19名であります。目下通州におきましては治安の維持もほぼ確実となりまして、引き続き行方不明の居留民を捜索中であります。

本事件は慇汝耕(いん・じょこう)の最も信頼をしておりまする教導總隊が支那側の煽動に幻惑せられまして、第一、第二總隊の一部をも誘い込みまして惹起をした兵変でありまして、全く予想をせなかった所であります。この事件が28日の夜の天津における夜襲と同じ日に起こっておることに徴しましても、第29軍の計画的暴挙であることは明瞭であるのであります。反乱の保安隊は30日北平北方に逃走致しまして、第29軍に合(がっ)せんと致したのありまするが、わが軍はこれを北平北方におきまして攻撃して、約1000名を武装解除を致しました。しかしながら無辜なる多数の同胞が暴戻残虐なる支那兵の手に掛かりまして、悲惨なる最期を遂げるに至りましたることは誠に残念至極で、私の最も遺憾とする所でありまして、この度犠牲となられた方々に対して、衷心より哀悼の意を表するものであります。これをもって終わります。





https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=007113242X00919370803&page=2
第71回帝国議会 衆議院 本会議 第9号 昭和12年8月3日
通州事件に関する陸軍大臣の報告
杉山元(陸軍大臣)
昨日本院におきまして通州事件について申し上げましたが、昨2日飛行機で調査の為に通州に赴きましたる軍司令部幕僚の報告によりまして判明致しました真相の概要を申し上げます。

右報告によりますれば、わが居留民は市内各所に散在居住しておりまして、事件の勃発まで何らその徴候を認めませなんだので、おのおの自宅におりました為に、急遽襲撃せらるる所となり、多数殺害せられたもののようでありまするが、中にはよく敵の手を逃れて守備隊へたどり着く者もありました。敵はわが居留民に対しまして言語に絶する暴虐なる行動をあえて致しまして、その大部分を城門外に拉致してこれを惨殺をし、その残忍なる行為はまことに耳目をおおわしむるものがあります。

昨2日本院において、わが守備隊に収容せられました居留民は約180名と申しましたが、昨2日の調査によりますれば、昨夕までに収容し得ました者は、内地人男40、女20、小児11、鮮人男14、女21、小児18、合計124名でありまして、それまでに発見収容致しましたる死体数は約130に達しております。なお残余の者の行方につきましては未だ不明でありまして、続いて調査捜索中であります。以上判明せる真相を取り敢えず報告致します。



前略と後略は省略、旧字は新字に変換、誤字・脱字は修正、適宜改行、
漢数字は一部アラビア数字に変換、一部括弧と句点を入れ替えています。
基本的に抜粋して掲載していますので、全文は元サイトでご確認ください。