コミュニケーション能力を向上させる、価値構築方法!! | キンジの自分軸哲学

キンジの自分軸哲学

~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

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どもども。

 

キンジです。

 

 

コミュニケーションって言いますと、

まぁ・・・・・・・、

人間関係には、必要不可欠なものではありますね・・・・・・(笑)。

 

 

 

けれども、

 

対話とか、会話と言ったような、

所謂、

 

コミュニケーションではありますが、

人間関係に必要不可欠であると同時に、

 

結局は、

 

問題の出し合いとか、

問題のすり合わせと言ったような・・・・・・・、

 

問題意識ってものを、

具現化し、尚且つ、目に見えるように、

明確にする事っていうのが、

結局は、

 

コミュニケーション全般に、必要とはなる意識ではある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

即ち、

 

事、言語化すると言ったような、

言葉によるコミュニケーションってものは、

その全てが、

 

「問題を出す。」って事には、

当てはまってくるものともなる事でしょう。

 

 

 

・・・・・・・というのも、

 

真の意味での平和ってものは、

結局は、

 

その本人の、個人的世界の中にだけ、

存在するという見解を元に、

思う次第でもありますし、

 

だからが故に、

 

人間関係、もしくは、

社会ってものは、

そもそもとして、

 

直接的な、暴力的な戦いは、

局所、局所でしか、起こらないものではありますが、

 

そういった戦いは、

結局は、

 

事件化したり、警察が介入する事によって、

治められていく訳ではありますが・・・・・・・、

 

事、

 

スキルや技の切磋琢磨と言う風な・・・・・・、

 

所謂、

 

これまた、

 

個人的世界の中には、見えガチではありますが、

 

その、実質的な戦いってものは、

日々、

 

作業が必要な現場や、個人技が必要になる現場では、

日常茶飯事的に、

起こり続けているものでもあり、

 

尚且つ、

 

それを終わらすって事自体が、

結果的に、

 

仕事の能率自体を、下げてしまう側面があるものなのです。

 

 

 

 

だからこそ、

 

それを、ある種の、

「出来レース。」でもあり、

ゲーム性を考慮して、

 

直接的な、暴力的な戦いに発展しないように、

マネジメントする為にも、

 

言葉による、コミュニケーションってものが、

必要にはなってくるものではありますが・・・・・・・、

 

 

まぁ、そもそもとして、

 

暴力的な戦いに発展する可能性ってものを、

ルール的に排除する事が、可能であれば、

 

それはそれで、

宜しいものとはなりますが・・・・・・、

 

そのルール制定にもまた、

 

言語化が必要になるのは、

言うまでも無い事なのかも知れませんね・・・・・・・。

 

 

 

即ち、

 

言葉によるコミュニケーションってものは、

行動を促すものでもありますし、

 

また、

 

問題意識をすり替えるにしても、

また、

 

別の問題ってものが、必須にはなるものではあります。

 

 

 

だからが故に、

 

どこまで行っても、

 

「言葉で済ます。」って事自体が、

「問題を出す。」って事になると同時に、

 

その問題を解決する為の、

行動ってものもまた、

 

個人の責任として、

 

体が健康体である限りは、

取り続けなければならないものである・・・・・・・とも言えるものでしょう。

 

 

 

 

そして、

 

その問題が解決すれば、また、

新しい問題を定義し続ける必要性があると。

 

 

 

これは、

 

一見、勉強的な流れには見えるものではありますが・・・・・・、

 

それ自体が、ゲーム性とも言えるものだろうし、

 

勉強で言えば、

 

人生全般に関わってくるような、

大人の勉強法とも言える事でしょうね。

 

 

 

即ち、

 

問題を出して、それを解決するって流れ自体が、

 

ビジネスでもあり、仕事の流れではありますが・・・・・・・、

 

その問題ってものは、

そもそもとして、

 

自分だけの問題では無く、

 

他者の問題の中で、

 

自分事と出来得る問題こそが、

 

その問題としては、

相応しいものとはなる事でしょう・・・・・・・・!!

 

 

 

また、

その為にも、

 

自分自身の問題意識ってものを、

明確化出来ている方が、何かと、

 

自分自身の、問題解決能力に寄り添った、

問題の選出が、可能にはなってくるものではありますし、

 

まず先決となるのは・・・・・・・、

 

言葉による、問題定義ばかりに、

拘る事では無く、

 

問題解決する為の、スキル磨きの方とはなる事でしょう。

 

 

 

まず、

 

自分自身が、スキルを行使する事によって、

「どのような問題を解決出来うるのか??」って事に、

 

長けておく必要性があるとも言えますし、

 

そもそもとしての、

 

スキルのレベル自体を、高めておくって事が、

必要とはなってくるものなのです。

 

 

 

それによって、

まずは、

 

自分自身の問題ってものを、

解決するものでもあり、

 

それに慣れてきたならば、

 

他者の問題もまた、

 

引き受けて、解決するって流れにはなる事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

何よりも大事になるのは、

 

「どのような問題を、解決出来うるスキルがあるか??」って事にはなりますし、

 

そのスキルを持ってして、

 

所謂、

抽象度レベルの移動が、行われるものでもあり、

 

また、

 

その抽象度レベルの移動を持ってして、

 

誰しもが、根本的解決を謀る事が不可能な、

ある種の、

絶望的な問題を回避すると同時に、

 

自分自身のスキルを持ってして、解決出来る見込みがある、

手頃な問題に、フォーカスを集中させる・・・・・・・・って事でもあります。

 

 

 

大きな問題とか、

巷に溢れている問題ってものは、

そもそもとして、

 

個人の手には負えない問題ってものが、

多くを占めるものでもありますから、

 

それが、もし、

 

解決に至るケースにおいても、

 

個人、個人の、

手頃な問題解決が、組み合わされた結果、

その絶望的問題が、

解決する事もあるし、

 

また、

 

そのまんま、解決に至らないケースも存在する事でしょう・・・・・・・・。

 

 

 

けれども、

 

そんな事は、お構い無しに、

 

自分自身の人生、

 

もっと身近に言えば、

 

自分自身の生活ってものは、

絶えず、流れていくものではある事でしょう。

 

 

 

だからこそ、

 

「まず、自分自身が、解決出来うる問題に取り掛かる。」って事は、

何よりも、最優先するべきものとはなる事でしょうが・・・・・・・、

 

そう、明確化すればする程、

 

そこに必要となるのは、

ある種の、

 

マッチョ的な意識でもあり、

奴隷的な意識となる事を、

 

予め、断っておきましょう・・・・・・・・!!

 

 

 

即ち、

 

何がなんでも、意地を張ってでも、

思考停止してでもまず、

 

「自分自身が、問題解決出来うるスキル。」に、

取り掛かる事が、

重要でもあり、

 

それを、能率的に、推し進めていくことによって、

 

その、問題解決出来うるスキルの周り、

もしくは、

それ自体に、

 

他者の問題の中の、

解決の見込みが存在する問題ってものが、

関連していくものではある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

だからこそ、

 

「自分自身が、問題解決出来うるスキル。」ってものは、

自分自身の好きな事を、

持ってくる方が、無難ではありますが・・・・・・・、

 

それの能率化を謀る際には、

 

逆に言えば、

 

好きな事ばかりを、行っていけば良いものじゃあ無くなるだろうし、

 

もっと言えば、

 

自分自身の嫌いな事もまた、

 

そのスキルの、能率化には、

含まれていくものでもあり・・・・・・・・、

 

結果的に、

その、

 

「自分自身が、問題解決出来うるスキル。」ってものは、

 

好きな事でもあり、嫌いな事でもある・・・・・・と言ったような、

 

甲乙付け難いものには、

なっていくものではあるのでしょうね・・・・・・・。

 

 

 

まぁ、

ここでの救いを言えば、

 

「それはスキルの問題である。」とも言えるだろうし、

 

スキル自体と、

自分自身の人間性とは、

また別物として、見ていく事も可能ではありますが。

 

 

 

 

即ち、

 

スキル的に見れば、

作業的に見れば、

 

「まぁ、奴隷ですよ(笑)。」って事ですが・・・・・・・、

 

それは何も、

 

人格的に、奴隷である必要性はありませんし、

 

「何かに魂を売ったり、心を売り物にする必要性も無い。」って事ではあります。

 

 

 

けれども、

そのように、

 

自分自身の魂とか、心を護る事が可能になる為にこそ、

 

「自分自身が、問題解決出来うるスキル。」ってものを、

磨く必要性があるのだろうし、

 

それを、

 

選り好みしないで、提供し続けて行く、

必要性があるとも言える事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

まぁ、

選り好みってものは、

無くならないでしょうが・・・・・・・(苦笑)。

 

 

 

少なくとも、

 

提供出来得る、可能性ってものを、

ある程度は、広げておく必要性があるでしょうが。

 

 

 

即ち、

 

選り好みは、

完全には無くならないって前提の元に、

 

対応性を持っておく必要性があると。

 

 

それは、

 

選り好みが存在しない所には、

人間性の欠如が見られるって事を意味しますし、

 

選り好みばかりの所には、

スキルのレベルの欠如が見られる・・・・・・・って事を、

意味する事でしょう・・・・・・・。

 

 

 

そのどちらの場合においても、

 

個人の世界観の、

平和を実現する為には、

必要となるのは・・・・・・・、

 

「問題解決出来うるスキル。」って事となりますし、

 

個人の世界観の、

平和を実現する事によって、

 

自分自身のベースでもあり、

コンフォートゾーンとなりうる、

 

自分自身の立ち位置でもあり、足場ってものが、

出来上がっていくものではあります。

 

 

 

まぁ、

それは結局は、

 

自己満足でもありますから、

 

他者の問題ってものを、

そのスキルの抽象度レベルを移動させる事によって、

自分自身の問題と、重ね合わせる事とはなるものでしょうし、

 

たとえ、

 

「自分自身が、問題解決出来うるスキル。」行使していただけだとしても、

 

それが、

 

「自己満足に過ぎないものか??」

 

もしくは、

 

「自己納得という形態として、他者の問題を、キチンと、自分の問題と重ね合わせているか??」

って事は、

 

経験則的に、

 

区別が可能にはなってくるものでしょうし、

 

そう、あるべきでしょう・・・・・・・!!

 

 

 

また、

 

言葉によって、

所謂、

「答えを出す。」って事は、

 

勉強的に言えば、

あるあるな事でありますが・・・・・・・・・、

 

原理原則的に言えば、

 

言葉で定義した時点で、

もう既に、

 

それは答え足り得ないってものとなるものでもあり、

 

言葉での仕事ってものは、

 

結果的に、全て、

 

「問題となる。」って意識を、

持ち合わせておいた方が、良いものとなりますね・・・・・・。

 

 

 

それは、

結局は、

 

より、答え的でもあり、

正論的なものを、出し尽くした方が、

より良い問題でもあり、

 

より良い質問となっていくものでもあり、

 

逆に言えば、

 

ある程度の、質感を持って、

問題定義している方々にとっては、

 

出し惜しんだ上での、

 

新たな問題定義の、展開方法が、

求められていくものとはなる事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

それは即ち、

 

問題自体が、絶望化しているものとも言えるだろうし、

 

それより先の問題に、

 

アプローチは出来たとしても、

 

アプローチする事自体に、負荷が必要となっているが故に、

 

スムーズには進まない状態であるとも言えますから、

 

それよりも、もう少し、

 

軽めの問題に取り掛かって、

 

別の展開でもあり、別のアプローチをする事により、

 

また違った正解を導き出す事には、

なってくるものでしょう。

 

 

 

その正解の積み重ね自体がまた、

 

絶望化している問題ってものを、

切り崩すピースとなる場合もあるだろうし・・・・・・・、

 

そもそもとして、

 

新たな、

 

手頃な問題を、見出す為の、

きっかけとはなっていくものなのです・・・・・・・!!

 

 

 

まとめとしては、

 

コミュニケーションってものは、

言語化される事によって、

問題化していくものなのです。

 

 

 

それは、

 

スキルを行使する事によって、

解決に至るものでもありますし、

 

スキルを行使する事によって、

 

解決できる問題と、解決できない問題に、

区分されていくものとも言える事でしょう。

 

 

 

問題が大きくなり過ぎると、

 

必ずしも繋がってくるのは、

 

絶望感でもあり、

絶望的な問題意識ではあります。

 

 

が、

 

手頃な絶望ってものは、

左程、問題とはならず、

 

手頃な絶望がある、無いに関わらず、

それは、

 

その本人にとっては、

 

自分自身が持ち合わせている、

問題解決スキルの、応用、流用性を試す、

いい機会となるだろうし、

 

また、

 

臨機応変さってもの自体を、

発揮する為の、チャンスともなる事でしょう。

 

 

 

また、

 

個人の平和を維持する、

もしくは、

創造する為には、

 

個人のスキルってものが、

必要不可欠ともなり、

 

それは、

 

自分自身の立ち位置をハッキリさせ、

自分自身の足場を、明確化することでしょう・・・・・・・・・!!

 

 

 

まただからこそ、

その、

 

個人のスキルを発揮する場ってものは、

 

何よりも、優先しておく必要性があるとも言えますし、

 

マッチョ的にも、思考停止的でもいいから、

 

とにかく、

「取り掛かる。」って事が、

求められる事にはなるだろうし・・・・・・・・、

 

たとえ、

 

脳筋的に取り掛かったとしても、

大丈夫です。

 

 

そこに取り掛かれば、

 

そこに、マインドセットは構築されていくものですから・・・・・・(笑)。

 

 

 

まぁ、

逆に言えば、

だからこそ、

 

そこは、

 

個人のスキルで済ませたいものでもありますし、

 

それでこそ、

 

変に邪魔されない環境として、

考えをまとめていけるもんではありますが。

 

 

 

スキルが変に、組み合わされることによってまた、

 

そこに、

 

小さな戦場が、出来上がってくるものでもありますし、

 

それは、その次の段階の方が良いだろうし、

 

自分自身の立ち位置でもあり、足場を明確化した上で戦わないと、

 

勝つ見込みもまた、

付きづらくなる=能率が落ちた上で、

個人の平和も、実現し辛くなりガチでもあり、

 

結果的に、

 

暴力的な、揉め事に、発展し易くなる事でしょう・・・・・・・・。

 

 

 

まぁ、

それは、

 

確率の問題とはなる事でしょうが、

 

確率を下げるに、越した事は無いと同時に、

 

「退路を、最初に確保した上で、他者の問題に取り掛かる。」

って事は、

 

基本中の、基本ではある事でしょう・・・・・・・・!!

 

 

 

即ち、

 

退路も用意しないで、他者の問題に取り掛かるそのスタンスが、

 

逆に言えば、

 

問題を拡大化して、

 

絶望の世界観を、創造していく行為そのものかと。

 

 

 

それは、

 

個人からでも、対処可能だろうし、

 

それが見えるって事自体がまた、

 

その人の、信用にもなってくるものではあります。

 

 

 

まぁ、

結局は、

 

問題を解決するのは、

ある種の、

 

奴隷とも言える、

 

自分自身の、手足を使った上での、

スキルではあるのですが・・・・・・(苦笑)。

 

 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・・・。

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

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