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サニーボーイ・ウィリアムスン 2世 「 Keep it to Yourself 」 1956年

2020年11月08日 | 音楽
サニーボーイ・ウィリアムスン 2世 「 Keep it to Yourself 」 1956年

 毎号欠かさず購入したいのですが、なかなかそうも行かず
どうしてもと云う号だけ。音楽雑誌に「BLUES & SOUL RECORDS」があります。
2018年の4月号はサニーボーイ・ウィリアムスン 2世の特集でした。
ブルース・ハーモニカの名手です。1965年に亡くなられていますが、音源は今も
発売され続けています。

来歴( ここからはWikipediaの情報を参照しています。敬称略 )
サニーボーイ・ウィリアムスン 2世の生年月日は
1899年12月5日とする資料が比較的多いのですが、
1897年、1901年、1909年など諸説があり、
正確なところは判っていないのです。
生まれは、ミシシッピ州グレンドーラ近郊のプランテーションでした。
彼の幼少期については、謎が多く本名ひとつとっても
ラスト・ネームを「フォード」とする説と
「ミラー」とする説があるなど、決定的な情報はありません。
独学でハーモニカを学び、他にギター、ドラムスも学びました。

1930年代頃から、ミシシッピ州とアーカンソー州を一帯を放浪し、
その過程でエルモア・ジェームス、ブラインド・レモン・ジェファーソン、
ロバート・ロックウッド・ジュニアらブルースマンと出会う。
当時彼は、リトル・ボーイ・ブルーという芸名で活動していました。
1941年、アーカンソー州ヘレナのラジオ局KFFAで始まった
ブルース番組「キング・ビスケット・タイム」にロバート・ロックウッド・ジュニアとともに
出演するようになります。

彼がサニー・ボーイを名乗り出したのはこの頃であり、
番組のスポンサーだったインターステート・グロサリーのオーナー、マックス・ムーアは
彼がその名前を使うことを提案したと主張している。
レコードは出していなかったが、この番組出演により南部一帯でサニー・ボーイの人気は高まっていきました。
番組のリスナーの中には後にザ・バンドのドラマーとして活躍するリヴォン・ヘルムもいました。
彼は自叙伝の中で、当時のウイリアムスンについて以下のように述べています。
「オーバーオールに麦わら帽をかぶった、じかに見るサニー・ボーイは、迫力に満ちた印象的な人物であった。
分厚い唇は長年ハーモニカを吹いてきたせいで硬くなっていた。
ぼくは彼がハーモニカに向かって歌っているのに気づいた。
彼の声は金属製のハーモニカを通って、剃刀の刃のように研ぎすまされてから、マイクに到達する。
それが歌に、特別な金属的な衝撃のエネルギーをくわえるのです。」

1951年、ウィリアムスンはミシシッピ州ジャクソンのトランペット・レコードで初レコーディングを行います。
エルモア・ジェームスらをバックに、ブギ・ナンバーを中心としたサウンドを披露している。
1955年、シカゴのチェス・レコード傘下のチェッカー・レコードと契約。この頃から拠点も南部からシカゴへ移しています。
同年、チェッカーにおける初セッションでレコーディングされた「Don't Start Me To Talkin'」がR&Bチャートの3位を記録する。
その後も「Keep It To Yourself」(1956年、同16位)、「Help Me」(1963年、同24位)とヒットを生んでいます。
チェッカーでのウィリアムスンはトランペット時代よりもぐっとモダンなサウンドとなり、また彼のハーモニカのプレイは、
シカゴ・ブルースにおける基本形として、多くの後続プレイヤーに影響を与えました。

1963年には、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のため、初めてのヨーロッパ・ツアーを行います。
1964年にも再度同フェスティバルに出演した。この間、ウィリアムスンはイギリスでアニマルズ、ヤードバーズ、
ジミー・ペイジなどとレコーディングを行っています。
1965年5月25日、再びキング・ビスケット・タイムに出演するためヘレナに戻っていたウィリアムスンは、
心臓発作により他界した。亡くなった直後にアルバム『リアル・フォーク・ブルース』が発表されました。



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