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正岡子規といえば知らぬ人のない明治の俳人ですが、短い生涯を終えた晩年、根岸の里に住み、そこで亡くなりました。
現代まで続く日本文学の一ジャンル、俳句を確立したのは江戸時代の芭蕉ですが、明治になって、革新を唱えて俳句に新風を吹き込んだのは正岡子規です。子規が俳句の世界を称揚して短歌の世界を批判したため、短歌の影が薄くなったと云われていますが、正岡子規が主張したのは、俳句の世界で流派をつくり自己満足していることを強烈に批判したのであって、短歌でも同じ現象が起きていていましたから、ついでに短歌にも同じ批判を浴びせただけなのです。 正岡子規のエッセーに次のような行がありました。 「土佐派、狩野派などいふ流派盛になりゆき古の画を学び師の筆を摸もするに至りて復画に新趣味といふ事なくなりたりと覚ゆ。こは画の上のみにはあらず歌も同じ」と。 俳号の子規という文字はホトトギスの別名ですが、ホトトギスは死ぬまで啼き続けると云われる鳥なので、肺結核で血を吐いた自分をその鳥になぞらえたのです。それほど強烈な意志を持つ子規でしたが、晩年は東京の隠居場所、静かな根岸の里に居を構え、最後まで俳句を作り続けました。 根岸の里は、山手線鶯谷駅を東に出て少し歩いたところで、「根岸の里のわび住まい」という言葉があるように、如何にも俳人子規が住むのに相応しいところでした。 根岸の里を隠居場所と云いましたのは、江戸時代に輪王寺宮の別邸「御隠殿」があったところだからです。輪王寺宮の「御隠殿」が設けられた時代は、そこは老松の林に包まれ、入谷田圃の風景が臨まれる長閑で静寂な江戸の奥座敷でした。 時は下って明治になっても、上野台地の東北に位置する根岸は、音無川の流れに水鶏(クイナ)が囀り、ここから眺める月は美しく、根岸は観月の名所でした。子規の家の前の通りを昔は鶯横丁と云ったそうですから、梅が咲いて鶯が飛び交っていたのでしょう。 今、子規が住んでいた家が子規庵として保存されています。コンクリートブロックで囲われた仕舞屋(しもたや)風の質素な家で、中庭を覗いたら、よしずに囲まれて朝顔などの花壇がありました。 (写真1、2) 嘗ての鶯横丁は、昔の位置のまま残っており、その横丁に面する家々の門扉には子規の俳句を書いた短冊が貼ってありました。鶯横丁の細い枝道には、子規が住んでいた頃のような草茂る路地もありました。時代を経ても根岸の里の風情は変わらないようです。 (写真3、4) ところが、子規庵のある鶯横丁にも好ましくない変化が現れています。それは、戦後のある時期から鶯谷周辺に風俗ホテルが密集してピンクゾーンとなったことに始まります。そこから溢れれ出た風俗ホテルが鶯横丁にまで進出しているのです。子規を愛し、根岸の里を愛する地元人々の努力が、無為に終わらないよう願うばかりです。 (写真5) (以上) 人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。 人気ブログランキングへ 写真1 写真2 写真3 写真4 写真5 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.04.23 19:17:41
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