祖母のことなど以前書いたのですが、そこで私が尊敬している祖母の姉の話など。

 

祖母と祖母の姉は2学年差ですが、ほぼ1歳半の年の差の仲の良い姉妹でした(さらに妹がいました)。

大伯母は(祖母の姉)昭和11年3月に広島県立広島高等女学校を卒業します。(30期生)

多分昭和6年に女学校入学だと思われます。

 

昭和6年ですと、その年の9月に満州事変が起き、だんだん世間が軍国主義に向かっていこうとする時期だと思います。

祖父は士官学校を延期してしまったりして失意の時期だったかもしれません。

その頃はまだ多分、祖父と、曾祖父や祖母は出会っていないんじゃないかなと思われます。

(幼年学校の頃から知っていたかもしれない説もあるのですが、不明です)

 

大伯母はとある県のとある病院にずっと勤務していました。

なので、卒業した大学(当時は医学専門学校=医専と言いました)も、その県の医専なのかと思っていました。

 

戦前、女医になるためには受け入れ先の学校が少なく、公立の女子医専は昭和18年から7大学(大連に一つ)、私立は東京に東京女子医専(現東京女子医科大学)、帝国女子医専(現東邦大学)大阪に大阪女子高等医専(現関西医科大学)と日本に3つしかありませんでした。(薬学部はその他ありました。またソウルにも京城女子医専がありました)

 

昭和18年にいくつかの女子医専が開校したのも戦争で男性医師が戦地に取られ、医師不足を解消するためだったと思われます。

 

なので、大伯母が戦後勤めていた県にも医専はありましたが、そこは昭和19年に設立した学校だということがわかり、大伯母のいた学校に該当しないということがわかりました。

 

そんなわけで大伯母が女学校を卒業した昭和11年には医専は3つ。なんとなく東京のどちらかかな~と考えるように。

なぜなら大阪は大伯母の口から出たことがない地名だったからです。

 

どうしたものかと思っていたら、便利なもので、『医籍総覧』という本がありまして、医師の出身大学や経歴、論文などが書かれています。(大学病院の医師などは出身学校のみ書かれている場合もあり、大伯母もそうでした。細かく書かれているのは個人病院、開業医のもの)

 

そこで、大伯母のいたであろう県名から見つけることができました。(それは昭和39年のものでした)

 

大伯母は昭和16年帝国女子医学専門学校を卒業していました。

医学専門学校は就学期間が5年なので、昭和11年3月に高等女学校を卒業後、4月に帝国女子医専に入学したのだと思われます。

 

帝国女子医専と言えば朝ドラの「梅ちゃん先生」で梅子が通う「城南女子医専」のモデルとなった学校とも言われています。

 

ちなみに昭和3年の情報ですが、帝国女子医専の所在地は東京府大森町賽田新宿。

医科は予科が1年、本科4年。

授業料150円、受験料10円、入学金10円

入学資格高等女学校卒業者。専検合格者及び同指定者。

試験科目、数学(算術、代数)、作文、化学、口頭試問、身体検査

当時の入学競争率、志願者数450名、入学者数150名、競争率3倍

(『女子学生叢書』より)

 

とのことでした。

地方から来た学生には女子寮(寄宿舎)があったそうです。

大伯母もそこに入ったのでしょうね。

昭和11年と言えば祖父も陸軍自動車学校に在籍中で東京にいます。

何らかの形で祖父と曾祖父(大伯母や祖父の父)が会っていてもおかしくありません。

(多分東京に曾祖父も上京しただろうから)

 

ちょうど本科にいる頃(昭和15年)、仲良しの妹が結婚して東京にやってきます。

年上ですが義理の弟になった祖父も青山の陸軍大学校に在籍していて、妹夫婦は世田谷に住んだので時々は会ったりしたのかもしれません。

卒業間近に妹の出産もありました(里帰りしたのかは不明ですが、出生届は世田谷になっています)。

産科希望だった大伯母も立ち会ったりしたのでしょうか。色々と想像してしまいます。

 

 

 

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本日は5月15日。

85年前の今日、五・一五事件が起こりました。

 

以前書いたように

陸軍士官学校本科生徒から12名(正確には11名と中退者1名)が襲撃実行に加わっています。すべて44期生です。

そのうち祖父のいた士官学校予科8期の第一中隊第五區(区)隊からは5名が襲撃に加わっています。

その5名が

池松武志(士官学校は退学していた)

坂元兼一

篠原市之助

吉原政巳

金清豊

で4名は残りの残り7名と一緒に即退学、禁錮4年となっています。

 

85年前の昨日、5月14日に陸士44期生は満鮮旅行から帰校しています。

大連上陸、遼陽→奉天→長春→ハルピン→四平街→洮南(とうなん)→安東→京城→釜山からの大旅行でした。

満州事変から半年ほどしか経過しておらず、生徒は小銃と実包携行、中・区隊長は拳銃と軍刀着用のものものしい装備での旅行だったようです。

 

当日15日は伝染病予防規則によって、全員外出を止められ、校内に隔離されていました。

とは言っても酒保に立ち寄ったりもできたよう。基本は寝かされていたようですが。

一部参加生徒はそこから脱走して事件に参加したとのこと。

 

その前年昭和6年頃から厳しい取り調べが行われていた様で、色々悪い方向へ動き出しているような不穏な空気があった模様。

決起に誘われてもどのように、という詳しい情報もなかなか入らず、昭和7年には卒業直前ということで、行事が多くなかなか連絡が取れず、45期に延期になった生徒が外部との連絡窓口になっていたようです。

 

もし、祖父がこの事件に参加していたら、私はこの世にいなかっただろうなあとは思います。

きっと祖父の人生は全然違う人生になっていたはずだから。

祖母とも結婚していなかったと思いますし。

そう考えると85年前の事件が、とても身近に感じるのでした。

 

 

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