キリストの御手の中で自由にされ、癒やされ、変えられていく恵みをあなたと。。。
こんばんわお久しぶりです。今年、2024年、最初の投稿ですずーっといろいろ投稿したいなぁって思ってたんですが、ズルズルしてましたでも、やっぱ学んだことや教えられたこと、示されたこととか、どんどんアウトプットしなきゃですよね。そのことを思わされてます。もう今年というか、新しい年に入ってもう半月近くになっちゃったけど、今日からリスタ(リスタート)ですこれからよろしくお願いしますさてさて、今朝みことばを味わいました。ぼくはclayってデボ手引きを使ってみことばを味わってるんですが、今日、味わいながら、聖餐式について教えられたので、そのことを分かち合いたいと思います。✰⋆。:゚・*☽:゚・⋆。✰⋆。:゚・*☽:゚・⋆。"さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」"マルコの福音書 14章 22節✰⋆。:゚・*☽:゚・⋆。✰⋆。:゚・*☽:゚・⋆。これ、イエス様の、いわゆる「最後の晩餐」って言われてる箇所です。でも、これはイスラエルの祭りの中でも重要な「過越の祭り」で、イエス様ご自身がこの時過越の祭りを導かれたんです。凄い贅沢!だって、イエス様が導かれ、その意味を解き明かされた過越の祭り。そして第一回目の聖餐式。弟子たち、羨ましくも感じます。でも感謝です。だって、ぼくたちはみことばを通して、聖餐式の本当の意味、そして恵みを味わうことが出来るんですからね。さてさて、過越の祭りなんですが、その順番って知ってますか?こういう順番で執り行われます。まず、第一の杯が配られます。これは「感謝の杯」と呼ばれるものです。次に、この儀式を執り行われている家の母親か娘が、水の入った鉢とタオルを持って回られます。そして食卓に着いた人たちは、その水で指を洗い、タオルで拭きます。ヨハネの福音書13章には、イエス様の洗足の箇所がありますが、これがそれなんです。なんとイエス様は母親か娘がやるところをご自身がやられ、しかも自ら、手ではなく、一人ひとりの足を洗われたんです。イエス様のしもべの姿がここからもわかりますよね。次に、第二の杯が配られます。これは「裁きの杯」と言われますが、福音書にはこの杯については触れられていません。でも行われたことは確かです。その次に、パセリを塩水に浸して食べます。パセリの葉っぱって、まっ、当たり前ですが緑色ですよね。この緑色は若さの象徴です。これは、「イスラエルがまだ若い国だったとき、神様は紅海を通って彼らを救われた」ということを象徴的に表しています。イエス様が誰がイエス様を裏切るのかを伝えた時、こう言われました。"イエスは言われた。「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。"マルコの福音書 14章 20節このイエス様と一緒に鉢に浸す行為、これがそれです。さて、このパセリを塩水に浸して食べた後、次に、種なしパンが配られます。さて、過越の食事では、「アフィコーメンの儀式」と言われるものが行われます。食卓に亜麻布で出来た袋が用意されます。この袋の中は、3つの部分に分かれています。各々の部分に平べったい形をした種なしパンが入れられます。合計3枚です。これは三位一体の神様を表しています。真ん中のパンは、そうですよね、子なる神様、イエス様を表しています。そのパンは二つに裂かれ、その内の半分だけ食べて、残りの半分は布に包んで家のどこかに隠されます。それからメインコースを食べます。食事が終わると、隠しておいた残りの半分のパンが持ち出され、布から出され、食されます。つまり、「アフィコーメンの儀式」は、メインコースを挟んで前半と後半に別れていたということです。で、前半はイエス様の十字架を、後半はイエス様の復活を象徴しています。イエス様はパンを取られ、「取りなさい。これはわたしのからだです」と言われました。この時のパン、つまり「これ」は半分に裂かれた種なしパンの片側のことなんです。そして、このパンは、イエス様のからだを象徴しています。このパンは、出エジプトの出来事を記念するための種なしパンでした。このパンは、イエス様には罪がなかったことを象徴しています。このパンを食べる人、つまりイエス様の十字架を信じ受け入れた人は、罪の贖いを受けるっていう約束なんです。さて、この半分に裂かれた片方種なしパンを食べた後、次に「ハロセット」と呼ばれる食べ物が配られます。これは、りんご、ナッツ、蜂蜜、シナモン、ワインなどを混ぜて作られたもので、見かけは泥を捏ねたような食べ物です。これは、エジプト時代に、レンガを作らされていたことを思い出すための食べ物です。家の主人が、ハロセットをパンの上に取って、それを客に配るのが当時の習慣でした。ヨハネの福音書13章26節で、イエス様はパン切れをイスカリオテのユダに与えておられますが、これはハロセットを乗せたパン切れなんです。この時点で、イスカリオテのユダは席を離れます。その後に、メインコースが出されます。そして、メインコースの後、第三の杯が配られます。これは「贖いの杯」です。イスカリオテのユダは、「贖いの杯」に与ることはありませんでした。イエス様は「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです」とお語りになられました。ここで、イエス様が十字架上で流される血潮は、罪の贖いのためのものであることが明らかになります。イエス様はこの「贖いの杯」を私たちクリスチャンとの契約の杯としてお用いになったのです。さて、この杯はイエス様の再臨を指すものともなっています。イエス様は言われました。「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」とお語りになりました。「神の国」とはメシア的王国、つまり千年王国です。イエス様は千年王国が設立される日まで、もはやぶどうの実で造った物を飲むことはありませんって言われました。なんと、千年王国の時、ぼくたちはイエス様の導きで過越の食事を頂くんです。だから、冒頭に書きましたが、パッと見は弟子たちが羨ましく感じますが、でもこの後、もっともっと凄い過越の食事を頂くことが出来るんです。これはイエス様の千年王国の時の預言です。これだけでも、再臨が楽しみですね!多くの教会では、月初めの日曜日に聖餐式を持ってるんじゃないのかなって思います。でもその内容をどれだけ理解してるかは疑問です。大体、聖餐式のパンに食パンを使っていること自体、わかってない証拠ですね。聖餐式でパンとぶどう酒を頂くとき、私たちは罪が赦されたことと、イエス様が必ず再臨されること、その時過越の祭りが行われることを告白しているんです。イエス様を信じ受け入れた人は、イエス様を通して、父なる神様と契約に入った人です。私たちはイエス様の十字架上で流された血潮で、罪が完全に贖われたんです。たとえ目に見える現実が失敗だらけだったとしても、天的には、つまりイエス様の目には聖人なんです。ぼくらはきよいんです。そして将来、近い将来イエス様が天からこの地に迎えに来られるとき(携挙)、ぼくらは栄光のからだに変えられます。一瞬の内にです。今はその過程なんです。そして気づいてないだけで、昨年よりは今年、昨日よりは今日、ぼくらは変えられています。一歩一歩イエス様の似姿に聖霊さまが日々造りかえてくださってるんです。2024年、イエス様が再び来られることを待ち望み、みことばにしっかり立って、歩んでいきましょうね。マラナタ、主よ早く来てくださいでわでわ
こんにちわ今日、2回目の投稿です。今日はカレーが食べたくなり、食べました🍛😋シーフードカレーです。ここ、夜はバーなんですが、お昼はカレーを出してくれるんです🍛🥄コクがあって、スパイシーで、めっちゃ美味しかったですやっぱカレー、美味しいですよね主よ、感謝します🙌でわでわ
ハレルヤ🙌ご無沙汰してます💦ずーっと放置状態でしたが、またブログ再開させていただきます。今回はみことばの分かち合いです。☆★☆★☆★☆★"私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。"コリント人への手紙第一 1章 4〜9節☆★☆★☆★☆パウロのコリント教会の人たちへの感謝のメッセージです。これだけ見ると、コリント教会の人たちって凄い人たちのように感じますよね。でも実際は逆。問題のデパートのような状態で、はっきり言うと自己中の集まり。そんなコリント教会に、パウロは神様に感謝を献げてるんです。それは、彼らの今の状態がどうであっても、イエス様の十字架の御業により、罪が赦され、義とされ、きよめられたからなんです。これを専門用語で「位置的きよめ」と言いまます。ぼくらもそうなんですよね。今の自分の姿を見ると、へなちょこだし、罪との戦いの最中だし、情けなく感じることも多々です。でもね、福音の三要素(イエス様が私の罪のために死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえられ、天に挙げられ、今も生きて働いておられることを、信仰によって信じ受け入れること)を信じて救われたとき、神様の目から見たら、その時きよめられたんです。そして、時間をかけて、日々の生活の中で、練られ、きよめられていきます。これを専門用語で「実践的きよめ」と言います。イエス様は間もなく私たちを迎えに天から迎えに来てくださいます。これを「携挙(けいきょ)」と言うんですが、先ずその時亡くなっているクリスチャンがよみがえり、天に挙げられ、次にその時生きているクリスチャンが挙げられます。この時、よみがえったクリスチャンは栄光のからだ、イエス様の似姿に変えられ、天に挙げられます。その時生きているクリスチャンは、天に挙げられる瞬間、一瞬に栄光のからだに変えられます。勿論体だけじゃないです。心もです。もう罪を犯すことはありません。病も老いもありません。最高の状態に瞬間的に変えられ、イエス様のもとに行くんです。パウロはこの恵みを受けて、神様に感謝したのです。☆★☆★☆★☆★"神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。"コリント人への手紙第一 1章 9節☆★☆★☆★☆★神様が私たちをきよめへと召してくださったのは、イエス様との交わりのためであり、イエス様との交わりの召しです。クリスチャンはたしかにイエス様との交わりに召されてます。でも、その中身は人によって違います。ある人は挨拶程度。ある人は、まるで恋人同士のような、いや、もっと深く濃厚なラブラブの交わり。そしてイエス様との交わりの深さに応じて、ぼくたちは変えられ、そして横の関係も深められます。間もなくイエス様は迎えに来られます。パウロはその日を待ち望んでいます。ぼくらもまた、携挙を待ち望み、備えましょう。そのために必要なこと、それが聖霊によるイエス様との愛の交わりです。そうやって、私たちの内面がきよめられ、イエス様の似姿に変えられていきます。主を心から待ち望み、主との関係を深めましょう!お互いに💓✨とりあえずこの辺ででわでわ👋
こんにちわ6月に入りましたね今月は2023年前半最後の月。なんか、着いこの間お正月だったような気がするんですが、来月には後半になっちゃうんですよね今日は賛美の紹介です☆★○☆★○☆★神の子何が出来ても 出来なくても何を得ても 失ってもただ愛されてる 天の父にわたしは神の子☆★○☆★○☆★この曲、めっちゃ好きなんです。ほんと、いつも励まされますし、慰められます。そうなんですよね、ぼくらは何か出来たから愛されてるんじゃないんですよね。ぼくのうちには、本当に何にもないです。天のおとうさまが、ぼくのことを一方的に愛してくださってるんですぼくは神様の子どもです。ぼくの保護者は天のおとうさま。ぼくのために、ご自身の御子イエスさまを十字架にかけるまでして。ぼくはその愛に応えていきたい。このお方を悲しませたくない。この素晴らしいお方を知って欲しいです。今月も主の愛に応答する歩みをしていきたいです。今月もよろしくお願いしますでわでわ
こんにちわ先週の事なんですが、夏前でちよっと早いんですが、花火大会に行って来ました解除は海岸だったんですが、浜辺は人で埋め尽くされていました。何せ、4年ぶりでしたからね当日、天気がよく、待っている間も心地よかったですこんな感じですめちゃめちゃ綺麗でした。やっぱ海はいいですよねーさてさて、花火大会本番です。こんな感じでした。なお、Twitterには長いバージョンのを上げましたので、こちらもご覧下さい。https://twitter.com/minomino_m/status/1663686193106780160?t=iBrWZC5YEuIhewdUd4vLww&s=09おすそ分けです🎇少し早いんですが、花火大会がありました。沖縄は台風だし、毎日鬱陶しい天気🌀☔少しでも癒されれば感謝です😊 pic.twitter.com/AFWiUcdkLp— 🌈🕊️みのみの🕊️@キリストのフォロワー🌈👑🙌 (@minomino_m) 2023年5月30日ほんと、毎日鬱陶しい天気ですし、癒されてくださいね今日一日も、主の豊かな恵みのうちを歩めますようにでわでわ
こんにちわなんか、えらい久しぶりです毎日慌ただしく、ときに心身ともに疲れて、心が重ーーくなることが多いというのが、実はこのところでした。正直倒れそうな状態。。。でも感謝ですね。聖書のみことばに支えられて来ました。もしみことばに立っていなかったら、間違いなく、この真っ暗闇な状況に流されてるんだろうなって思います。✰⋆。:゚・*☽:゚・⋆。✰⋆。:゚・*"あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。」"ヨシュア記 1章 5〜9節✰⋆。:゚・*☽:゚・⋆。✰⋆。:゚・*今、旧約聖書のヨシュア記を味わってて、この箇所が心に響いたんです。モーセが死んで、残された新リーダーのヨシュア。そのヨシュアに神様は「強くあれ、雄々しくあれ」って語られたんです。これ、ヨシュアにとってめちゃめちゃ励ましだったことと思います。5節では「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」って約束されたんです。あぁ、そうなんですよね。ヨシュアを祝福された神様は、同じようにぼくたちをも祝福してくださるんですよね。だから恐れる必要は全然ないんです。だって主が常にともにいてくださり、絶対に見放されたり、見捨てられるようなことはないんですからね。神様はぼくに対して特別な計画を持たれている。そして完成するまで、もっと言うと、ぼくがこの地上生涯を通して神様の栄光を表し、完全な、栄光の姿に変えて頂くまで、マルっと神様がぼくの責任をとってくださるんです。そう、ぼくの保護者は全能なる神様なんです常にみことばを学び、味わい、そこから右にも左にも逸れることをせず、ただただ主のみことばに応答していきたいです。そして、神様を証しし、みことばを語る者、みことばによる喜びを分かち合っていきたいです。☆★○☆★○☆★わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。ヨシュア1:9☆★○☆★○☆★ハレルヤ、主よ、感謝しますまたこんな感じでちょこちょこ書いていきますね。導きのままに。。。とりあえずこの辺で。。。でわでわ
こんにちわ4月になりましたね。花粉も大分おさまってほっとしてます🤧ほんと、今年の花粉、めちゃくちゃ気使ったです。ティッシュが大親友、鼻水が凄く、くしゃみも連発、目も肌も痒くて痒くて今年は対策しなかったけど、流石に来年はちゃんと対策しなきゃって思わされてます。さてさて、4月と言えば、、、って言うか、、実際には3月末からなんですけどね、そう、桜です🌸桜、本当に綺麗ですよね。街中がピンク色に染まるこの季節、好きです。と言っても、もうかなり散って、緑色になってきてますけどね😉少し歩いたとこにある森林公園です。空気が全然違ってて、鶯とキツツキがひたすら鳴いていて、めちゃめちゃ癒されました。ソメイヨシノじゃないんですが、そこでのメインはこれでした。あと、鎌倉の若宮大路の桜です🌸期間限定ですが、癒しの時、大切ですよね。神様が与えて下さったご褒美、感謝でしたハレルヤでわでわ
こんにちわ今日は朝から雨せっかく暖かくなってきたのに、今日は冬に逆戻り😵ほんと、寒いです。早く暖かくなって欲しい。。。そう、ちらほら桜も咲いて来ました。まだちらほらで、殆どは蕾ですけとね。でも一本だけ、フライングして満開の桜の木がありました。本格的な桜のシーズン、楽しみですね一年に一度の神様からのプレゼント、楽しみです今週も今日でおしまい。明日からの一週間もよろしくお願いします🌈イエス様の御手の中で。。。でわでわ
こんにちわ気づいてみれば、今日は2月28日、2月最後の日。なんか、早いですね、ベタな言い方ですが。。。💦でも、今年に入ってもう2ヶ月過ぎようとしてるんですね。今年に入って、母が入院するわ、何だかんだとバタバタしっぱなし。そして明日から3月。ずーっと放置状態だったブログも、再開しようと思います。って、毎回それ言って、再開します詐欺じゃないかっていう状態ですね3月は桜の季節🌸主に期待します外は青空、雲ひとつない暖かな陽気その分、花粉が凄いですけとね🤧ティッシュが親友です(笑)また更新していきますので、よろしくお願いします仲良くしてくださいねとりあえずこの辺で。。。でわでわ
こんにちは今日2つ目の投稿です。こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。"ヘブル人への手紙 12章 1節信仰のレース、あぁ、救われた時から今に至るまでずーっと走ってきたんだなってしみじみ思わされてます今の状態というと、恐れや不安がまとわりついてくるし、実際ふらふらで、心身ともに疲れてます。足がもたれそうな感じですが、でも、決して、絶対倒れません。転びません。この信仰の長距離走の道、決して楽ではなく、険しい道乗りですが、でもここまで後ろを振り返ることなく、走りつづけてきました。ただただイエス様を見上げて。この長距離走のゴールはメシア的王国、千年王国です。そこは、あのエデンの園の回復であり、罪に覆われたこの地が回復し、癒された場です。もうそこには罪はなく、呪いもありません。そして、私たちは栄光の姿に変えられ、そこに住み、そこでの生活を千年間楽しみ、その後、新天新地、全く新しくされた場所で、永遠に主を愛し、主の光の中で生き、楽しむんです。このゴールに向かって、今ひたすら走っています。ゴールに一心に目を注いで。これからも走り続けます。ゴールに達したとき、イエス様から「よくやった、忠実なしもべよ」と言ってくださることを楽しみにし。。。さぁ、今週も一緒にこの最高に素晴らしいゴールを目指して、一緒に走り続けましょう今週もよろしくお願いしますでわでわ
こんちにはお久しぶりです。ほんと、おひさですよねずーっとずーっと放置状態でした。ごめんなさい🙇ブログ、再開しようと思います。ずーっと放置状態で、時々、再開するといいつつ、放置しちゃってました。再開しますよ詐欺ですね今年もあと2ヶ月ですが、やっぱブログ、いいですよね。気を張らず、導きのまま、思いのままに書いていこうと思ってます。あんまり当てにならないんですか、改めてよろしくお願いしますとりあえずこの辺で。。。でわでわ
こんにちわ~一日遅れちゃったんですが昨日はイースターでしたイースターって何かというと、約2000年前、神であるお方であるイエス様が人間となり、この地上に誕生されました。そのイエス様が33歳のとき、私たちの罪を一身に背負い、本来私たちがかからなければならなかった十字架に身代わりにかかられ、十字架上で死なれました。そしてイエス様は死んで葬られ、お墓に入られました。でも、もしイエス様が死んでそれでおしまいだったら、私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれた可哀想な、そして、尊敬する偉人っていうことになりますよね。でも、イエス様は死んで葬られておしまいじゃなかったんです。そう、3日目によみがえられました。たま~に、「イエス様は霊的に復活された」とか、「弟子たちの心の中で復活した」とか、わけのわからない説明をされる方がいます。ま、理性では信じられないからでしょうね。。。でもね、イエス様は確かに3日目によみがえったのです。そして、霊的とかじゃないですよ。肉体をもって、人間として復活されたんです。この記念が、イースターなんです。今日、イエス様は天におられます。弟子たちに会われたイエス様、天に上げられました。そして、今、大祭司として天のおとうさまの右の座に座られ、私たちのために日夜とりなし祈っていてくださっています。そして、弟子たちの目の前で上げられたイエス様、上げられた後、天使が言いました。 「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:20)イエス様は天に上げられてのと同じ有様で、再びおいでになるって約束されたんです。そのことをパウロはコリント人への第一の手紙の中で書かれました。 ☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○ 第一コリント15:20~25 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。 ☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○この箇所は、イエス様の復活について書かれている箇所です。イエス様は眠った者の初穂としてよみがえられました。初穂って何でしょう?初穂とは、最初に刈り取った収穫物です。初穂があるということは、後に続く穂があります。イエス様は最初によみがえられたお方です。そして、イエス様の後に続くよみがえりがあると書かれているのです。その日、その時、まずイエス様が天からこの地上に降りて来られます。それは、私たちを迎えに来るためです。だから、よくこのことを「空中再臨」という言葉で言われたりします。空中まで来てくださるからです。そして、まず先に亡くなったクリスチャンがよみがえります。その時、完全な姿形でよみがえります。そして直ぐに空中で待っておられるイエス様のもとに上げられます。そして、その時生きている真のクリスチャンが完全な体に変えられ、一気にイエス様のおられる空中に上げられます。そして天に上げられるんです。これを携挙といいます。イエス様はそのことを約束されました。そして、その後、この地上は患難時代に突入します。それは人類への裁きです。しかし、クリスチャンは罪赦された存在なので、裁かれることはありません。まるで出エジプトの時、エジプト人は裁かれたけど、ゴシェンに住んでいたイスラエル人は裁かれなかったのと同じです。パウロはこう言っています。 ☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○ 第一テサロニケ4章18節 ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。 ☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○パウロは、この携挙の恵みを味わい、待ち望み、お互いに励まし合いなさいって言っています。イースター、イエス様が復活された恵みを味わい、喜ぶ記念日です。しかし、それだけじゃありません。この日は、真のクリスチャンを迎えに再び来てくださるイエス様を待ち望む日でもあるんです。世の中は本当に暗いです。何が真実かわからないし、メチャクチャな世の中ですよね。そういう中で、イエス様は私たちを迎えに来てくださいます。だから、イエス様に何時お会いしてもいいように、主に喜ばれる歩みをしていきましょう。その時、イエス様はきっと満面の笑みで、「よくやった、よい忠実なしもべよ」って言ってくださいます。マラナタ、主よ、迎えに来て下さいでわでわ~
こんにちわ~今、旧約聖書の出エジプト記を味わっています。やっぱりみことばを味わうって良いですね~つくづく思わされます。みことばから離れると、自分の思いで行動しちゃい、結果、空回りしちゃいます。これ、めっちゃ疲れますよ~、メンタルがねそこでなんですが、毎日って言いたいとこなんですが、なかなか難しいので、導かれた中で、日々みことばを味わっている中で示されたこと、教えられたことを分かち合うこととします。出エジプト記16章1~2節 イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。 そのとき、イスラエルの前回宗派、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。イスラエルの民はエジプトを脱出し、今、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入りました。この「シンの荒野」って、エリムとシナイの間にあるんだけど、具体的にはエリムから約30キロのところにあるそうです。で、今、イスラエルの民は荒野に入ったんだけど、これ、「第二の月の十五日」ってありますよね。「第二の月」っていうことは、モーセを率いてエジプトから脱出してから、1ヶ月が経過したっていうことです。エジプトを脱出し、神様の驚くべき奇跡、紅海の水が真っ二つに分かれ、そこを歩いて渡ることが出来ました。後を追ったファラオ率いたエジプト軍はというと、紅海の真っ二つに分かれたところを通って追いかけたんですが、彼らが渡っている途中、分かれた水が元に戻り、彼らは溺れ死んでしまいました。イスラエルの民は、それを目の当たりにし、神様の偉大さを肌で感じました。それだけじゃないですよね。エジプトを脱出するまで、10の災いを神様はモーセを通してなされましたが、ゴシェンに住んでたイスラエルの民は何の危害も遭わなかったんです。そして、この10の奇跡を通して、エジプトの神々の虚しさ、力の無さがはっきりわかりました。そして、そのエジプトを出て一ヶ月後です。イスラエルの民は今、荒野にいます。荒野って、聖書的には神様の訓練するための学校なんです。イスラエルの民はその学生となりました。この荒野での生活を通して、神様はご自身に頼ること、神様がすべての必要を満たし、祝福され、ご自身の栄光を現されるお方であることを学ぶんです。でもね、初っぱなからイスラエルの民、失敗しちゃいました。。。そのとき、イスラエルの前回宗派、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。神様があんなに凄い御業を現してくださったのに。。。しかもね、ここに来るまでで、途中シェルの荒野というところを3日間歩いたんです(出15:22~27)そこでも彼らは文句言ったんです。シェルの荒野を歩いても歩いても水が見つからず、見つかっても苦くて飲めたもんじゃなかったからです。それでモーセに「われわれは何を飲んだらいいのか!!!」って文句を言いました。それでモーセが神様にどうしたらよいのかを聞いたら、一本の木を示され、それをその苦い水の中に投げ込みなさいって言われたんです。で、言われるがままにモーセは木を投げました。そうしたら、なんと水は苦くなくなり、逆に甘くなったんです。彼らはそんな凄い奇跡を何度も見ました。それなのに、シェルの荒野で神様が苦い水を甘くして飲めるようにしてくださったのに、全然学習せず、おんなじように文句タラタラ。。。でもね、ぼくたち、これ、笑えないです。。少なくともぼくはね。だって、苦しみの中で、不平不満言っちゃうことありますからね。何でなんだろうってね。。。いつまでこんな生活続くんだろうってね。。。希望が見いだせない時、苦しくて苦しくてしょうがない時に、つぶやいてしまうことが正直あります。でもね、思うんです。つぶやきや不平不満を言うことから、希望は見いだせません。逆に悪魔はそのつぶやきを用い、神様から離そうとします。そして、その先に待っているのは不信仰であり、神様に頼るんじゃなく、我力でやろうとしたり、自分の思いが神様の思いにすり替わっちゃい、まるで自分の考えが神様の考えのように考え、行動しちゃうんです。その結果、必ず失敗します。新約聖書の第一テサロニケ5章16~18節にこうあります。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべてのことにおいて感謝しなさい。 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。今、すごく思わされてるんです。すべては神様から与えられたものであり、自分の力によって得たものなどひとつもないなって。どんな些細なことであっても、当たり前はないんだってね。だからね、ほんとに感謝すること、これがどんなに大事かっていうことを思わされています。でもそれは神様に対してです。だって、すべての必要は神様から来るんですから。だから、今ごろからなんですが、今年の目標は「感謝すること」です。つぶやきのマインドから感謝のマインドにシフトすること、これが目標です。聖霊様に頼り、感謝の心を持ちたいと思います。そのために必要なのは、やっぱりみことばを味わうこと、みことばに立つこと。そして意識して、口に出して「感謝します!」って告白することです。食事もお風呂も何もかも、また何か買った時も、そのことに対して「主よ、感謝します」って告白するんです。いつも感謝の心でありたいですねハレルヤ、主よ、感謝しますでわでわ~
こんにちわぁ早いもので、4月になってもう10日。4月と言えば桜🌸そこで、お花見しました😊🌸🍡そして、この風景が好きです。この赤い橋と桜、好きなんです。なんか風情があるなぁって思うんです。実際に見ると癒されますよそしてこちら鎌倉の若宮大路の桜。観光客がいっぱいでしたが、天気もよく、桜がめっちゃ綺麗で癒されました。桜ってほんと癒されますよね。ピンク色に染まるこの季節、好きです寒い冬が終わり、神様の優しさを感じるこの季節、神様からの最高のプレゼントですね。この季節、楽しみたいと思います今月もよろしくお願いしますねとりま、この辺ででわでわ
こんにちわー前回、ブログ復活するって宣言したんだけど、その後また少し間が空いてしまいました。このところ、プライベートでバタバタしてて、なかなか時間が取れずというか、タイミングが上手く取れなくて書けませんでした。少し前のことですが、久しぶりに海に行きましたら。天気がめちゃめちゃ良くって、海の先に江ノ島がくっきり綺麗に見え、その先に富士山が見えました。やっぱり海はいいですよね。めっちゃ癒されました心は疲れてますが、そんな中、神様がくださったプレゼントなんだなって、しみじみ思わされました。今日は早いもので水曜日、週の後半ですね。後半も主が共におられる。優しい主の御手に信頼し、一歩一歩進んでいきますとりあえずこの辺で。。。でわでわ
こんにちわ~お久しぶりです。めっちゃ久しぶりですね~随分と長い間、ブログを放置しっぱなしでしたごめんなさい。また改めて、ブログ、再開します。聖霊さまに導かれるままに、みことばから教えられたことや、日常で示されたことなど、自由に書いていければなぁって思ってます。今後ともどうぞよろしくお願いします。とりあえず今回はこの辺で。。。でわでわ~
こんにちわ~今回は、賛美を紹介します。「この日は♪」っていう賛美ですこの曲についての聖書のみことばなんですが、このみことばを味わうと、更に賛美の意味が深まります。 ☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○ 私はあなたに感謝します。 あなたが私に答え、私の救いとなられたからです。 家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。 これは主がなさったこと。 私たちの目には不思議なことだ。 これは主が設けられた日。 この日を楽しみ喜ぼう。 詩篇118:21~24 ☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。それは主がなさったこと」これ、イエス様の預言の箇所です。「家を建てる者たちが捨てた石」イエス様はユダヤ人の王としてこの地に来られました。旧約聖書で預言者たちが預言した約束のメシア、そのお方が来られたんです。ところが、彼らはイエス様を受け入れるどころか、否定し、拒否されました。挙げ句の果てに、イエス様が奇跡を起こされたのはベルゼブルっていう偶像神によって追い出したんだって、とんでもないことを言いました。これはもはや赦されない罪です。彼らにとっては、まさに不必要な石、でも私たち救われた者たちにとっては、要の石なんです。イエス様について、パウロはエペソ人への手紙2章でこう言っています。 ☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○ 使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。 エペソ2:19~20 ☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○「要の石」これは、家を建てるときの基準とする石のことです。建物を建てるとき、その石を中心として家を建てるのです。この要の石こそ、イエス様です。そして、その家の土台は使徒と預言者。つまり、聖書のみことばです。そしてこの使徒と預言者の語られた土台はもう完全に据えられています。しっかりがっちりした土台の上に、今日、教会である私たちクリスチャン一人一人が建て上げられているんです。詩篇118篇の時代は、まだイエス様がこの地に人として来られていませんでした。でも、今、2021年現在の今は、全く状況は違います。だって、約2000年前にイエス様はこの地に来てくださいました。そして私たちの罪のために十字架にかかられたんです。イエス様の十字架で流された血潮により、私たちの罪は完全に赦され、取り除かれました。そう、私たちは今自由であり、勝利者なんです。だからね、イエス様を受け入れていない人たち、イエス様のことを知らず、この世の基準で生きている人の「この日」と、私たちクリスチャンにとっての「この日」は違うんです。たしかに毎日ハッピーっていうわけじゃないですよね。この賛美の歌詞にあるように、何かを手放し失ったような状況、実際に失ってしまうことがあります。ぼく自身そうです。今ね、ほんとに状況を見ると、絶望しかないです。誰も理解されないし、孤独感も正直あります。理不尽だなぁって思うことも正直あります。正直に言いますね、独り言で「もう嫌だ、逃げ出したい、死んじゃいたい」って無意識(意識的な部分もありますけど。。。)につぶやいてしまう時もあります。ほんとに試練の渦の中にどっぷり入っています。心身共にヘロボロ状態ですでもね、今、要の石となられたイエス様は素晴らしいんです。イエス様は今、大祭司となられ、天の神殿において、父なる神様の右の座に座られ、ぼくたちのために、ぼくたちの心を理解し、涙しながら執り成し祈っていてくださっています。イエス様こそ最高の理解者です。イエス様はそして同時にぼくたちの内に住んでいてくださっています。イエス様の御手の中にすべての必要は満ちています。だから、イエス様に信頼するんです。信仰者を惨めな状況で決して終わらせることはありません。だから、このお方を見上げるとき、その日を楽しみ喜べるんです。イエス様がすべてのすべてです。イエス様はぼくのすべてを知っておられ、ぼくの悲しみも、苦しみも、絶望感も何もかもご存じです。ぼくはね、このお方に信頼しています。すべての必要は主の御手の中にあります。心乱れること、不安や思い煩いの暴風がぼくの心の中に吹き荒れ、この状況から逃げ出したい、もう死んじゃいたいって思うこと、今のぼくの状況です。でもね、イエス様はそのことを理解され、今も天の至聖所でぼくのために大祭司として執り成し祈ってくださっています。そして、信仰者を辱めるようなお方じゃないです。今の試練は、将来のための訓練であり、神様の許しの中でのこと。そしてテスト。ぼくはただただイエス様を見上げ、イエス様の御手の中に留まり、その御手に信頼するだけです。そう、すべての必要は主の御手の中にです、ハレルヤさあ、共にこの日を喜び楽しみましょう!イエス様を見上げ、イエス様に感謝の賛美を捧げましょう!ハレルヤ6月の後半も主の御手の中主に依り頼みつつ。。。じゃぁね
こんにちわ~今週も無事終わりましたそして、6月ももうじき終わりなんですよね今年も半分終わり。。。なんか信じられないけどねさてさて、今日、お出かけの帰り、お散歩しました。ここ、日中は観光客で凄いんですが、夜になると、あのすごい人どこ行っちゃったの?って思うくらい人がいなくて、カップルが数組いるくらいでした。春になると桜が綺麗に咲くんですが、今は緑に覆われてます。なんかエモくていいですよね静かで、癒されました明日から新しい一週間、そして明日の礼拝も祝福された時となりますようにじゃぁね
こんにちわ~今日もスッキリしない天気。雨じゃない分、いいんだけどね。さてさて、梅雨といえば紫陽花紫陽花スペシャルです👏👏👏梅雨の時期ってどんより、気持ちまでどんよりになっちゃいそうになります。なんか磁石のように、どんよりに引きつけられちゃいます。でも、神様は優しい💗こういう鬱陶しい時期に、神様が備えてくださってるんですね。ほんと、神様のお造りになったものはどれも素晴らしい主の癒やしを感じます。ハレルヤじゃあね
こんにちわ今日は朝からすっきりしない1日でした、この辺は雨降んなかったけどね逆に午後からは青空もうっすらだけど見えました。そこからの~空見るの、好きなんです。雲の形とか、その広さとか、見上げるとリフレッシュするんです。でね、ふと空を見ながら思ったんです。空良を見上げると重~~い雲でも、この雲の裏は輝く青空なんですよねおんなじように、どんなに苦しくても、理不尽に感じても、神様の愛は変わんないんですよね。 ☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○ どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。" エペソ人への手紙 3章 16〜19節 ☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○苦しい時、どうしたらいいのかわかんなくなるときって、どうしようもなく感じるし、どうしたらいいのかもわかんなくなります。でも、真っ暗な重~~い雲の裏が青空のように、目の前に見えるものだけを見ると、「どうして~」ってなっちゃうし、心が重くなっちゃいますが、でも、上を見上げるとき、そこにはイエス様がおられるんですイエス様は今、大祭司として天で、父なる神様の右の座に座られ、ぼくたちのその苦しみのため、共に涙を流し、執り成し祈っていてくださってるんですよね。昨日、今日と、すっきりしない空を見上げながら、この雲の向こうのことを思いながら、そんなことを思い巡らしました。今は苦しいですが、でも主の愛は真実だし、今はただ主に信頼する時なんだなって思わされます。表面的な部分だけ見ちゃうと、真っ黒て重~~~い雲に覆われてるように感じるけど、でも、その裏には輝く太陽があるし、そこは青空なんですよね。問題に注目したら、それは雲を見て、その状態がすべてって感じちゃうように、試練がすべてになっちゃいます。そして、それを一番喜ぶのはサタンですぼくらはサタンを喜ばしちゃだめですよねほんと、どこを見るかで大きく違ってきますよね。ぼくたちの心がいつもイエス様に焦点を合わせ、イエス様だけを見つめる歩みが出来ますように。。。じゃぁね