菊川・豊浦地区のお話し、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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市外地区(現在、菊川町、豊浦町)の名所


夢ケ丘公園散歩道

人間のつくったたくさんの道の中には、必要不可欠な生活道路は多いが、自然をうまく利用し、自然の姿をそのまま生かした道はすくない。

巨額の経費をかけて建設されたヤマナミハイウエイのような観光道路は、それなりに美しく人びとを楽しませてくれるが、そうしたもっぱら観光用につくられた道路ではなしに、もっとひなびた自然歩道のような道が、われわれにいちばん安らぎを与えてくれ、心をいやしてくれるのである。

ところで、そのようなすばらしい道が手近にあるのに、あまり人に知られていない。北浦の国道一九一号線を小串に向かって走り、小串の町はずれにある。小串小学校のところから、右折して山手へ入る県道、豊浦-菊川線がそれである。

特に夢ヶ丘公園から川棚の浜井場バス停に抜ける二キロの道は、詩情あふれる美しい風景が続き、有名な軽井沢の散歩道にも匹敵するロマンの道である。

道の両側には赤松や雑木がうっそうと茂って、緑の深いトンネルが続き、舗装された道の両脇脇には落葉がびっしり散り敷いて、湧き出た山水に黄や紅の違いをにじませ、土手にはクマザサやシダの葉が鮮やかな緑をたたえており、人気のない木立ちの中には、澄みきった小鳥のさえずりがこだましている。

この道の新緑のかおるころには、サイクリングが最適であり、落葉の降り込かかる秋は、恋人と肩を並べて歩くにふさわしい道である。

付近には海の見える夢ヶ丘公園、少年自然の森や天然記念物エヒメアヤメの自生地もあり、またこの道路からわかれた、風雅な山道やせせらぎもある。

川棚の方へ下ると浜出祭で有名な浜井場へ通じ、そのすぐ上の台地 には天然記念物クスの森もあり、散策する場所が多くて迷うくらいである。

この美しい道を通るたびに、私はその魅力に打たれ、車を降りて歩くのであるが、すばらしい自然のたたずまいにふれるたびに、今の姿がいつまでも維持されるよう深く念じながら、心を残して帰途に向かうのである。


クスの森と名馬伝説

川棚温泉から北へ約四キロ行った小野の台地に「クスの森」と呼ばれるみごとなクスノキ(楠、樟)がある。

このクスノキは、大正十一年十月に国の天然記念物に指定されたもので、日本三大クスの一つと称せられ、高さは二十一メートルもあって、一株から十八本の枝を四方にのばしており、その最長のものは二十七メートルにもおよび、まるで竜がうずくまっているような異様な光景であり、一株の木にもかかわらず、遠目には森のように見えるすばらしい大樹である。

五月の若葉のころは森全体が金色にもえ輝き、一雨ごとに次第に縁の色を深めてくるが、若葉のあとの花の季節になると、気品のある香気が、暗い木立ちの中をむせるように漂い、ミツパチが酔ったように 群れ飛ぶのである。そして六月には、この小さな花の粒が雨のように降りそそぎ、地面をうす緑に染めてしまう。

クスの森は別に「霊馬神」とも呼ばれ、馬にまつわる次のような伝説が残っている。天文年間、青山城主黒井判官が戦いに敗れ、傷ついた。雲雀毛の名馬をこの地に埋葬したところ、夜な夜な霊馬が現われ災いをするので、霊馬をしずめる祭りを行ったという。

ところでこの名馬伝説は諸説あり、地域も吉母の御崎、室津、川棚、小串、蓋井島とまたがっているが、いずれも蓋井島まで海を往復しながら育ったという点で共通している。

そしてこの名馬が平家物語「宇治川の陣争い」に勝った「いけずき」(池月、生食)だとする説まであって興味をそそるが、荒海を泳ぎ廻って育った名馬ゆえに、宇治川の急流も平気で乗り切ったであろうと推察され、飛躍し誇張された伝説であるけれども、その着想や想像がたいへんもしろく思われ、名馬の霊が乗り移ったクスの大木が、ますますたのもしく、うっそうと繁った森に尽きない愛着をおぼえるのである。


内日貯水池遊歩道

下関市の水道は、明治二十四年(一八九一)、外人技師W.K·バルトンによって計画され、水源地を内日に求め、給水人口六万人を目標として同三十四年に着手され、市内にはじめて給水が開始されたのは、明治三十九年(一九〇六) 一月のことであった。

こうした貴重な歴史を秘めた内日貯水池であるが、人口急増の新時代に適合できず、主役の座を木屋川ダムにうばわれた今では、ほんの補助的な役目を果たしているにすぎない。

しかし市内に、このように美しい貯水池をもったことはたいへんありがたいことであり、内日貯水池の変遷を知ってか知らずか、最近は休日ごとにたくさんの人びとが自然を求めて押しかけ、今や新しい観光地、レクリエーションの場として脚光をあびるようになった。

ところでこの貯水池は二つあり、下の池より上の池の方が山ふところが深く、変化に富んでいておもむきがある。特に山を背にした池の入口の風景は、詩情あふるるものがあり、山紫水明という感を深くする。家族連れには、右手にある草原の広場が楽しめるであろうし、若い二人には 池をめぐる遊歩道をおすすめしたい。

さてこの貯水池には、二つの異なった顔があって興味がつきないが、右手の散歩道は、陽のあたる明るい軽快な小みちで、心のはずむ景色が展開する。一方、左手の道は竜王山の麓に連なり、山の陰の暗い道で、ひんやりとした緑の冷気を感じさせる神秘的な木立ちが、変化しながら続いている。そのまま進むと池の尽きたところに赤田代の人家があり、右手に下って池に出ると、一周して元の出発点へたどりつくことができる。

一つの貯水池が、このように対照的な二つの美しい顔をもっているのは珍しく、私は内日貯水池を訪れるたびに、その不思議なあやしい魅力にとりつかれるのである。


亀ヶ原、浮石義民直訴之碑

内日地域のちょうど中間あたりに、亀ヶ原というバス停があり、そばに浮石義民の記念碑がある。
これは宝永七年(一七一〇)、長府藩椙杜家老の給料地、浮石村(豊田町)で起こった直訴事件で、余りの圧政に堪えかねた村人の中から、庄屋の藤井角右衛門を中心に九左衛門、与市右衛門、太郎左衛門、豊吉の五人が、折から来藩した幕府の巡見使に直訴したもので、その結果願いが取上げられ、家老は閉門減封となり、苛酷な課税も緩和されたが、当時の定めのとおり(直訴した者は死刑のおきてであった)五人は松小田の刑場の露と消えたのである。

この直訴は、はじめ浮石村の杢路子川にかかる大橋で予定されていたが失敗し、五人はこの亀ヶ原までやって来て、碑の前にあったタバコ畑に野宿して待ち、巡見使見回りの最後の日、亀ヶ原の茶屋に休憩した幕吏に、青竹にはさんだ直訴状を差出し、本懐を遂げたものである。

このほか亀ヶ原に残る一つの伝説がある。それは昔、現公会堂付近に大庄屋があって、庄屋に米俵を運ぶ車は「入馬千匹、出馬千匹」といわれるほど栄えていた。この馬につけている鈴の音が耳にさわった庄屋の娘が「鈴の音がやかましい」と文句を言ったところ、その夜、同家についていた福の神が逃げ出して、まもなく没落してしまったということである。

バス停前の道を少し上ると公会堂があり、その先の屋敷跡に五輪塔や、宝印塔のこわれたのが集められ祀ってある。これは二児を亡くした家主が、自分の屋敷の下に埋もれている、これらの墓の存在を教えられ、わぎわざ家を移し、墓を発掘して祀られたものである。

また燃える塚の伝説もあり、付近には苔むした六地蔵もあって、このあたりを地元の古老に話を聞きながら、ゆっくり散策するのもおもしろく、さらに奥山や員光方面へも山道が続いていて興味がつきない。


岡枝のどろ仏さま

菊川町岡枝のパス停から二十分ばかり山手に入った道路のそばにお堂があって、珍しいどろ仏が祀られている。このどろ仏については植野広太さんの「長門の野仏」に、次のようなおもしろい記述があるので紹介させてもらう。

『近郷の地蔵詣りを続けているうちに岡枝にどろ仏があることを聞いた。しかしなかなかお詣りする機会がなかったので、どろ仏の近くだという人に詳しく聞いてみた。「どろ仏というのは石の仏さんだろう」「いや木で彫ってある」「立っているの」「すわっている」「頭は丸いだろう」「丸いようだが四角なようにもある」 (この唐変木め!自分の目で見ていながら丸いか角いかわからんのか)「その仏さんは一個だけか」「いやたくさんある」「なぜどろ仏と呼ぶのだろう」「五月に田のどろを塗りつけて拝んでおけば、田植え仕事をしても手足が痛むようなことがないそうだ」という次第で私は完全にお手上げだ。がまん出来なくなって自分でどろ仏を見に行った。驚いた。これはどう見ても仏様という感じではない。頭の形だって丸いようでもあり四角なようでもある。全体の感じは天神様のような格好をした木像だ」とあり、調査したところこれは「地蔵十王経」に出てくる十王様であり、故人の初七日、四十九日、一周忌、三周忌など十回の祭日を関所として、その関所に現れる仮の姿をされた十人の仏様のことで、仮の姿であるから冠をかぶり狩衣のような唐服を着ているのだと、結ばれている』

ところで実は私も訪れてみて驚いた。なるほどどろが塗りつけられており、供えられた稲の苗が干からびて残っていた。

これはやはり田植作業で神経痛が出ないようにとお願いし、同時に豊作を祈 るのであろうが、小日本の民話で有名な菊川町に、まだこのように愉快なおもしろい「どろ仏」の奇習が残っているのは、たいへんほほえましく、ほのぼのとした気持を受けるとともに、農家の苦労が切実に痛感されて頭のさがる思いであった。


七見の法輪寺

山電バス田部停留所から、露地のような古い町なかを通り抜けると、田部高校の前に出るが、グラウンドのそばの道を田部川にさかのぼって約三十分ばかり歩くと、道路のそばにお旅所を見つけることができる。

この境内には灯ろうや庚申塚、石殿まであり、さらに行儀よく蓮座の上に坐られた六地蔵もあって、完全な神仏混合の寄合世帯が展開され、なごやかなほほえましい風景をつくっている。

この道をさらに進んで行くと、一切経で有名な快友寺があるが、お旅所の少し先の鳥居から、左側の七見(ななみ)の村落へ入り、小川に沿って山手の道を登りつめたところに、県の文化財に指定された法輪寺がある。

お寺は無住であるがよく手入れされており、古い石垣の上に築かれた白塀からは、格式の高さを思わせる気品が漂っている。一重寄棟造りの本堂は、小さいながらも素朴な様式により、建物全体に力がみなぎって、すっきりした清々しいふん囲気をつくり、特に屋根の流れが明快な美しさを描いて、見る人の心に落着きと安らぎを与えてくれる。境内の天神社宮殿も同時に文化財に指定されているが、そのほか芭蕉の句碑 などもある。

また付近の土手上に、古い五輪塔が十数基ずつ三ヵ所に寄せ集め祀られているのも興味深い。さらにお寺の先には、深い山を背にした池があって遊歩道が続いている。人里離れた山あいの池はひっそりと静まりかえり、周囲の山やまを映した水の美しさは格別で、人に知られてないのが惜しい。池の岸には、ハギとオミナエシがびっしり咲き乱れて、紫と黄と緑の織りな す秋の色どりがまぶしいくらいであった。


夢の国中山渓

マイカーの普及により、最近は郊外への遠出が多くなり、日曜、祭日になる と、内日や深坂の水源池はアベックや家族づれでにぎわっているが、折角遠出するのなら、もう少し足をのばして、中山渓や神上寺、徳仙の滝を訪れてみてはどうだろうか。

緑のしたたる夏とはまた趣きを異にして、落着いた大自然のすばらしいたたずまいが見られるのに、誰一人訪う者がないのは残念であり、もったいないくらいである。

県道西中山のパス停から徒歩二十分で到達する滝と湖の菊川町の中山渓は、美しい秘境である。写真は十一月十四日に撮影した晩秋の中山渓である。

前日までの雨により、木立ちのほとんどが枯葉を落としていたが、それでも遊歩道を歩くにしたがって、残りのもみじが音もなく、しきりに肩に降りかかるのであった。

そして水かさを増した渓流はとうとうと滝音をひびかせて走り、飛散する水しぶきが緑の岩苔を伝い、青い淵にとけこむと紅や黄のもみじが、くるくると舞いながら漂ってくる。

時折、思い出したように木洩れ日がさすと、いままで沈んでいた暗い場面が、急に生き生きとよみがえり、まるであたりは黄色の炎に燃えたように、きらきらと輝くのである。

夏には美声を誇った河鹿も、今は深い眠りにつき、朱ぬりのかじかばしが、ひっそりとうずくまっている。そして橋や石段や歩道を埋めつくし散り敷いた黄金の落葉のじゅうたんがどこまでも続いて、夢の国へ誘われて行くような錯覚をおぼえると同時に、あまりにも豪華な自然の秋の饗宴を目のあたりにして陶然となり、ただただつるべ落としの秋の陽が、しきりにうらめしく思われるのであった。


徳仙の滝

下関近辺には渓谷が少ないので滝が珍しいが、それでも市内には長府石槌神 社と勝山の大王寺に小さいのが見られ、市外では菊川町の中山渓に、また豊田町では徳仙の滝、石柱渓の滝が有名であり、北九州市小倉には菅生の滝がある。そして中山渓の滝、徳仙の滝、石柱渓の滝はみな木屋川の上流である。

さて滝を訪れるのは、新縁の濃い夏もよいが、やはり紅葉の秋が最高である。

山電バスで豊田町の石町に下車し、川沿いの舗装された道を山手に向かうと、途中で道が二つにわかれ、右は神上寺へ通じ、左をたどると二十分くらいで華山(げさん)のふもとの徳仙の滝へ到着する。

この徳仙の滝は、神上寺を開いたといわれる徳仙上人が修行された場所であり、上人の名をつけたもので、滝の手前右側の畑の中に、徳仙上人の古い墓が忘れられたように建っている。

滝は飛瀑十二メートルといわれ、夏には地元の婦人会によりそうめん流しが行われ、涼を求めて集まる人びとでにぎわい、夜はキャンプ場として若者たちに喜ばれている。

またこの清流一帯は、可憐な美声の持主河鹿(蛙)の名所にもなっていて、風流人を楽しませてくれる。うっそうと茂るほの暗い木立の中から、とうとうと流れ落ちる飛瀑は真白なすだれをかかげて、苔むした奇厳に飛散し、青い深みには、もみじが一枚二枚ゆらゆらと漂い、澄んだ淵の底には、どんぐりの実がたくさん沈んでいるのが見える。そして滝の上からの木洩れ日が、青葉や紅葉を逆光に照らし、純白の滝がまぶしく光って、えもいわれぬ美しさであった。

夏のにぎわいをよそに、今は不思議と誰一人訪れる者はなく、この秋色にいろどられたみごとな滝の景観を一人占めにするのが、心苦しくもったいないような思いであった。


西舎人の墓

小月から足をのばし田部峠を越えれば「小日本」で有名な菊川町に入るが、峠まで行かず上小月から右手の道を進むと、豊東小学校があり、上大野というバス停もある。

このあたりは長門鉄道時代に栄えたところで、鉄道の名残りの駅前広場と一部の建物があるが、今は雑草の茂るにまかせた荒地となって昔日の感はない。ここはまた、藩制時代の処刑場跡ともいわれていて、数年前には怪談めいた話もあったようである。

このバス停から少し山手に入ったところに、清末藩士の西舎人(にしとねり)と従僕、佐助の墓がある。

清末藩四代匡邦のとき後継者がなかったので、世嗣問題について萩本藩から迎えようとする一派と、長府藩からの迎えを支持する派が競合して藩が二つにわかれ、有名な「清末騒動」というお家騒動となったが、西舎人は萩藩を強力に支持して萩本藩に直訴したため、清末藩からにらまれて、結局自殺に追いこまれ、従僕の佐助も主人のあとを追って死ぬという悲劇があった。

後継者は萩、長府を外して他藩から迎えられ五代正明と名乗ったが、これも三カ月で自殺死というミステリーに富んだ結末となるのであるが、小月明円寺の天寧和尚が活躍したのもこのときのことである。

さてこの西舎人の墓のそばに、ヤマモモの木があるが、あるとき子どもがのぼって墓石に小便をかけたところ、白ヘビを見て病床についたという伝説があり、そのことから 逆に、この墓にお願いすると腰から下の病気も、子どもの夜尿症も治してもらえ、また歯や耳が痛むときに祈願すると霊験あらたかとのことで、非常な信仰を集め、お参りする人が絶えなかったといわれている。

そういえばヤマモモの大木が墓を守るように茂っているが、よく見ると根本は隣りの杉の老木と交じわり一体となっており、なんだか憤死した西舎人と佐助の痛恨の魂が、木の霊と化しているような、すさまじい執念と幽気さえ感じられるのであった。


菊川そうめんづくり

こよみの上ではもう立冬(十一月八日)を過ぎ、朝晩もぐっと冷えこんできたので、今ごろそうめんと言えば、首をすくめる人もあるかもしれないが、私は大のそうめん好きで冬でも賞味している。ところが同じ趣味?の人もいるものとみえ、この数年スーパーなどでは、冬もそうめんを売っているところが多い。

そうめんは現在「素麺」と書かれているが、もともとは、なわ(索)のような麺ということで、はじめは「索麺」(さくめん)と呼ばれたのが次第にそうめんに転じ、字も素麺を当てるようになった。また室町初期には宮中では「ほそもの」といわれ、のちに「ぞろ」とか「ぞろぞろ」という異名がつけられ、これは今の御所 (宮中)ことばにも引きつがれ使われている。

さて最近のこと、下関の近郊(菊川町下保木)にそうめんをつくっていること、を知り、嬉しくなり、さっそく訪ねてみた。このそうめんは「菊川の糸」と名づけられ、既に下関市内にもたくさん販売されているが、現在専業としてつくっている家は七軒、そして農閑期に副業としてつくっている農家が五軒ある。材料は昔から伝えられているように小麦粉と塩であるが、菊川は良質の水に恵まれているので、おいしいすぐれたそうめんが出来るのだと、自慢されながら話された。

朝早くから始められた手作業により、純白のすだれのように干されたそうめんに、おだやかな秋の日がさんさんと照りそそぎ、庭先の真赤に熟れた柿の実が稔りの秋を伝え、えもいわれぬ美しい風物詩を描いている。そしてこののどかなたたずまいを、一瞬切裂くかのように、もずがけたたましく鳴いて、早い冬の到来をしきりに告げるのであった。


(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)


豊田湖 

木屋川ダムの人造湖である。木屋川ダムは下関一帯の上水道、工業用の水源を確保するため昭和15年にダムの建設が着工された。

しかし第二次世界大戦の影響で一時中断。戦後の昭和25年に再開され同29年に完成した。

写真はサイクリングで訪れたときの一枚。〈豊田町大字地吉·昭和43年提供=宝石 めがねのヨシダ〉


田部川で水遊び 

現在の菊川ふれあい会館前の田部川である。当時、夏の川はプールに早変わりした。

〈菊川町下岡枝·昭和40年頃·提供=服部時計文具店〉


(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)