関門海峡百話、移りゆく自然 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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移りゆく自然

下関市の市広報昭和四十八年一月一日号表紙には、関門橋の日の出が見事なカラーで掲載されていた。関門橋エイジといわれたこの年の新年号にふさわしい写真である。

門司古城山の頂から出たばかりの太陽が、ちょうど門司側の橋脚に美しい朝やけの光をそそぎ、橋げたの下には、美しい姿の阪九フェリーがさしかかろうとしている。これは、市広報係のカメラマン河野博氏の力作である。

早速、何人かの人々が、この構図を求めてカメラを向けてみた。ところが、橋と太陽との関係がどうしてもこの位置で画面に収まらないのである。それもそのはず、河野氏が写したのは前年の十一月末から十二月の初めにかけての時期のもの。日の出の位置は日々わずかでも移りゆくのである。

年改まっての一月、二月ではどう工夫しても、橋脚に接するような日の出の位置を求めるわけにいかない。そして船の位置も、また難しい。もともと海峡を写す場合、その航路に大型船が位置を占めないと、どうも密度のある海峡の図になってくれない。

最狭部の早鞆の瀬戸あたりに大型船がさしかかった時が、海峡のシャッターチャンスの定石ともいわれている。だからその位置に橋が出来た今、橋下に船がさしかかろうとする時が、即ちシャッターチャンスとなるのである。

このチャンスと日の出のタイミングが合致することも容易ではない。この写真こそ、冬を迎えようとする厳しい季節に何日も何日も、夜明けの海峡と取り組んだ河野カメラマンの努力の結晶だったのである。

日の出の位置が日々変わるように、海峡の自然の顔も、一年を通じて様々に変貌する。例えば、海峡の春は、霧ともやの日が多く、全く対岸を見ることが出来ない日もめずらしくない。海峡の町に霧笛がこだまするのは、そのような日である。一メートル先が見えにくい濃霧に、海峡の航行が禁止される日さえある。

四月の天気は、十年間の平均でも、ほぼ半数が曇りか雨となっている。そうした四月から五月にかけての晴れた日に、一万近いヒヨドリの大群が海峡の海面をはうように渡って行くという。この様子が、海をはう竜の姿のようだということから、土地の人たちは「竜の渡り」と呼んでいる。

なじみの深い渡り鳥つばめが海峡を渡るのを見るのも四月頃から…。この地域の規準となる気象台の生物季節観測記録では、関門地区のつばめの初見は三月二十六日、おわりが九月二十五目ということである。

夏から秋にかけては、空と海が相映しあって紺青の色彩を見せてくれる。夕立のあとなど、対岸との距離が急に狭められたような鮮明さをもって迫ってくる。日によって、対岸との距離感が異なるというのも、身近に眺めることのできる者にとっての一つの楽しみである。

海峡の変貌は、毎日接する者をもあきさせない。関門橋の眺め一つにしても、常々同じようでありながら、日々の天候、季節の移り変わりとともに、微妙に異なる味わいをもって私たちの目の前にそびえているのである。

日の出を取り入れた関門橋の写真ならば、その位置によってほぼ季節がわかる。橋塔の上を流れる雲の姿にも四季折々の顔がある。関門海峡に見事な季節が移り行くように、海峡の新しい顔 関門橋、にも様々な季節の顔が生まれ、四季が流れて行くことであろう。

そして、カメラマンたちは、それを影像にとらえるべく、限りなくシャッターを切り続けて行くにちがいない。

(関門海峡百話 清永只夫)


サメも登場

クジラ、イルカと話が続いたが、やはり鮫にも登場を願おう。『東海道中膝栗毛』を世に出し、江戸時代の滑稽本の第一人者として知られる十返舎一九(一七六五~一八三一年)に『金草鞋』という作品がある。

関門の地が登場する江戸時代の作品をみると、さすがに交通の要衝、『……紀行』とか『……日記』『…の記』といった旅行記ものはかなりの数にのぼるが、文学作品としては、わずかに西鶴『好色一代男』、近松門左衛門「博多小女郎浪枕』、そして滑稽本としての『金草鞋』などを数えるに過ぎない。

そしてこの『金草鞋』にしても、狂歌師鼻毛延高と遊歴僧知久良の諸国見物の様子を面白く描いたいわば旅行記。二十五編から成り、文化十年から天保五年にかけて刊行されたもので、作者当人は関門海峡に実際に来たというより、かなり詳しい資料によって書いたものであろうとみられているが、その中に、一つの滑稽話が紹介されている。

関門渡しの舟中での話、

「私がまへかたここの船に来たとき、風もなく沖も静かであったが、どうしてか大きな鮫が二、三十かたまって来て、舟をひっくりかへそうとする故、乗合の人が皆膽を潰し、青くなってこれはならぬとうろたへ、どうぞ生命は助かりたいと、神仏を祈って生た心もない処に、乗合の中に、一人若い男が出て、わしが皆の衆を助けませう、きづかひさっしゃるな、と其男が船の舳へ出て、コリャコリャ此の船には乃公(おれ)が来て居る、此の鮫共は、乃公を知らぬかとにらみつけると、其鮫が皆こそこそと、残らずにげてしまったから、乗合皆々大きに感心して、其男に礼をいひながら、さても不思議や、あの怖ろしい鮫共が、どうしたことで、お前を見ると道げゆきましたは、合点の行かぬ、お前はあの鮫どもと、親密でござるかと聴たら、其男がいかには、わしを見ると彼の鮫どもが道げる筈でござる、私は大阪で、商売が蒲鉾屋でござるといったから、成程鮫が遁げた筈でござる」

単純に笑って読みとばす程度の話ではあるが、海峡にサメを登場させている点が興味深い。関門海峡、決してサメが住みついている海ではないが、クジラやイル力が入って来るように、案外大海とも近く接するこの海峡のこと、サメが入り込むことも不思議ではあるまい。

今から二十数年前、長府沖の満珠島、干珠島の付近で泳いでいた中学生が、サメに足をもぎ取られたという事件が起きたこともある。事実、大きい外国航路の船に導かれるかのように、今日でも時折サメが入りこんでくることがあるらしい。船から捨てられる残飯が目当てで、船を追って来るわけである。

なお、『金草鞋』には、「下の関を出でて檀の浦あり、この先き前田というのは長門の国と豊前の国の間の迫門にて、筑前の北の玄海灘といふより、中国の海に落る瀬といふにて、潮流の急きこと、矢を射るに均しく、対向にはやともの社見ゆる、めかりの明神といふ…」という一節もあり、

また、海上に舟も坐りて動かぬは風ゆたかなる上下の関青柳のめかりの迫門に船の帆の風になびきてはやともに着くなどの狂歌もみられる。

(関門海峡百話 清永只夫)


イルカに戦勝をうらなう

クジラの話が出たが、イルカの方がさらに関門海峡とのゆかりは深いようである。今日でも、イルカは時折海峡を通過するらしく、去る昭和四十四年頃、 イルカ十数頭が海峡を通過するのを見た人は多い。

ところで昔は、海峡にもイルカがかなり沢山いたらしく、面白いのは、『平家物語』の源平壇の浦の合戦の重要な場面に、イルカの大群が登場してくることである。

周知のとおり、『平家物語』巻十一は、源平両勢力がいよいよ最後の対決へとなだれ込み、まさに合戦のおたけびに彩られているが、中でもそのクライマックスが長門壇の浦合戦、先帝御入水の段である。

この段は、まず戦いたけなわの中で、空から白旗が一流れ、源氏の船の舳に舞い下り、源氏方がこれを吉祥として喜ぶ様を語り、それに続いて、「又沖より、いるかと云ふ魚一、二千、這うて、平家の船の方へぞ向ひける。大臣殿、小博士晴信を召して、『いるかは常に多けれども、未だかやうな事なし。きっと勘へ申せ』と宣へば、『このいるかはみ帰り候はば、源氏亡び候ひなんず。はみ通り候はば、御方の御軍危う覚え候』と申しもはてぬに、平家の船の下を、直に這うてぞ通りける。世の中は今はかうとぞ見えし」と語っている。

小博士晴信とは、陰陽博士の安倍晴信であり、はみ帰りとは、魚が水面に浮かんで呼吸することを言うのであって、いわば、イルカの大群に戦勝をうらなったわけである。一、二千とは、いかにもオーバーであるが、当時のイルカの存在を証明づける作話と考えることも出来るのではあるまいか。

(関門海峡百話 清永只夫)



(彦島のけしきより)