防長歴史探訪1、重盛守護仏の流転、西楽寺阿弥陀如来 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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西楽寺阿弥陀如来像

(関の廓」盛衰史 澤忠宏著より)


重盛守護仏の流転1
西楽寺阿弥陀如来(下関市)

平家落人部落といえば、高畑ということになるが「彦島」もまた、知盛本陣説に限らず、島全体が平家伝承に彩られている。

この彦島、今でこそ大和町の埋立て、関彦橋の架設などで下関市街地との間に一体感を感じさせるようになったが、かつては小門海峡にはばまれて、歴とした島の孤立性を持っていた。

そして彦島は、「十二苗祖」といわれる十二家によって切り開かれたというのが郷土史上の定説。

即ち、保元の乱で崇徳上皇の軍に属して敗れた伊予国勝山城主河野通匡の子通次が、家臣の園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平の五人を連れて九州へ落ちのびようとして海峡を渡るおり、彦島を見てここを再起の場にしようと迫の地に住みついた。

その後、壇之浦の戦いで敗走した植田治部之進、岡野将監、百合野民部が部下を引き連れて来島。

さらに源頼朝を信濃善光寺参道に襲おうとして失敗した和田義信が、河野・植田一族を頼って逃げて来て、その翌年には一ノ谷逃走以来備前に隠れて再起をはかっていた富田刑部之祐と登根金吾が同志を求めて来島。

以上の一二家が住みついて島の開発に努めたというのである。

必ずしも平家方というわけではないのだが、平家滅亡のイメージがあまりにも強烈であった故に、いつしか彦島全体が平家伝説に覆われていった。

地名だけとってみても、彦島迫の地、本村から峠を越して西山方向に下ったすぐ左側の小高いあたりに残る「カナン堂」の呼称も、平家落人が奉持して来た観世音菩薩像を祀った観音堂に由来。

彦島竹の子島に残る六人武者の江良も、平家残党が海賊となって襲撃した地点を伝えたものといい、福浦の六十三隻江良も、その六人の武者を討伐するため九州豊前から兵百数十人、船六三隻が襲来、この地に潜んだことからの地名。

その戦いにおいて九州勢の中で特にあっぱれな働きをした鶴五郎・仁蔵の戦死した場所が鶴の江良、仁蔵の江良、として伝えられ、また二人の首を埋め丁重な供養をしたのが今日の田の首、だというのである。

杉田や姫の水、といった地名も、落ちのびた官女伝説に由来する。

(防長歴史探訪1)


重盛守護仏の流転2
西楽寺阿弥陀如来(下関市)

しかし、彦島と平家伝承といえばなんといっても「平重盛守護仏彦島開闢尊像」と称されている彦島本村の「西楽寺本尊阿弥陀如来像」を見逃すことはできない。

寺伝によれば、この仏像の由緒は驚くばかり立派なものである。それは、白鳳の昔、天武天皇が阿弥陀如来を拝んで浄土往生の安心を得たいと奈良の春日大明神に祈願され、その神宣を受けて、賢問子という仏師に刻ませた仏がこの西楽寺の阿弥陀如来というのである。

造られてからおよそ五〇〇年、この仏像は奈良の東大寺に安置されていたが、承安四年(一七四)、平重盛(清盛の嫡男)が紀伊の熊野大権現に参り、西方往生を祈ったところ、「東大寺の坐像こそ真の弥陀であるから、その仏に願うがよい」とのお告げがあったので、重盛は早速この阿弥陀如来を申し受けて平家の守り本尊とし、厚く信仰していた。

ところが壇之浦に平家一門が滅んだため、この本尊を守護していた植田治部之進、岡野将監、百合野民部の三人がひそかに阿弥陀如来、観世音菩薩、薬師如来の三尊像を奉持して壇之浦を逃れ、彦島に上陸、先住者である河野一族に頼んで迫の地に祠を建てて安置、これが前述カナン堂の起こりである。

その後、建治二年(一二七六)、一遍上人が西国教化のため当地に立ち寄られた折、上人にしたがっていた西楽法師がこのご本尊をみて、「これはただならぬ御仏である。このような仏の下で平家の供養を」と、島の人たちの力を借り、現在の西楽寺を建てて長く仏に仕えた。

西楽法師はもともと平家一門で、平家供養のために出家した人。西楽寺建立後は、彦島において平家再興をはかる人々の野望を静め、農業・漁業の生業につくよう導いたという。したがって彦島に平和をもたらした阿弥陀如来ということにもなり、彦島開闢尊像とも称されているのである。

その植田、岡野、百合野の三人による彦島への御仏奉持渡来説に対し、郷土史研究の先覚者吉村藤舟は、三人の名は正史に伝はって居ない。併し正史に伝はらないから、事実無根だと言へない。なにしろ平家の余類は相当の数に上ってみる筈であるに、正史の伝ふる処は実に少数である。これは戦敗者の常であるから致し方もない。が、三人と限ったのは、弥陀、観音、薬師の三尊に配したものだらう。と、興味深い視点を示している。

こうした由緒を詮索するまでもなく、檜材、寄木造り、彫眼、納衣を偏福右肩につけ、上品上生の印を結び、蓮華座上に結跏跌坐する像高八三・五センチ、膝張六九センチ、膝高一五・二センチのこの阿弥陀如来坐像は、充実した精神性をうちに秘め、非常に優れた仏像であることは疑う余地もない。その作域から藤原仏とみられ、昭和六十年(一九八五)十二月、下関市の文化財に指定された。

西楽寺の墓地には、彦島開発の祖、河野通次ゆかりの墓などもあり、彦島の歴史を探るならば一度は訪れるベき寺であろう。

そして河野通次といえば、彦島迫町にある氏神彦島八幡宮に伝えられるサイ上り神事、も興味ある伝承行事である。彦島八幡宮は応神天皇を主神とし、相殿に仲哀天皇,神功皇后を合祀し、平治元年(一一五九)、河野通次によって宇佐八幡宮から勧請されたという。

サイ上り神事は当社の秋祭りに行なわれる祭事で、通次が舞子島の海中から御神体を引き上げた故事に由来。さあ上らせ給え"が『サイ上がり、となったもの。神事は、本殿祭、 発輿祭、潮強行事、サイ上り神事、本殿還幸祭の順に行なわれる。

まず潮掻きで心身を清めたあと社頭前方に三角形の盛砂を築き、標を立てる。その後、裃姿の子供が三度三角に跳ぶ魚の様を表し、通次に扮した武士が御神体のあがる意味の舞いを舞って神事は終わる。

この神事も昭和五十三年(一九七八)十月に市の無形民俗文化財の指定を受けており、平家伝承とは別のものであるが、やはり価値ある文化遺産であろう。

(防長歴史探訪1)

(彦島のけしきより)
















(彦島のけしきより)