防長歴史探訪1 、怨霊鎮慰の御影堂建立 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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怨霊鎮慰の御影堂建立 1
赤間神宮(下関市)

平家一門の滅亡を語るとき、下関地方では寿永四年の年号を用いる。日本歴史上の年号からいえば、寿永二年に平家一門が都を逃れたその翌年、後白河法皇は都に後鳥羽天皇を立て、年号も「元暦」と改めており、寿永四年、西暦一一八五年は元暦二年ということになる。

したがって、都で書かれた『平家物語」なども元暦二年の年号を用いているわけであるが、下関では、幼い生命を散らされた安徳帝のお立場に立ってか、今もなお安徳朝年号の「寿永」にこだわり続けており、ここにも平家追悼の心情がうかがわれる。

一方、勝利を収めた鎌倉の方は、「文治」の年号を用いるようになったため、この変革の年一一八五年は、実に、元暦二年、文治元年、寿永四年という三つの年号を持つことになった。

ともあれ、壇ノ浦合戦で、ことのほか運命の悲劇を感じさせるのが安德幼帝の入水であろうか。山鳩色の御衣にびんづらゆはせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさう美しき御手をあはせ、まづ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮・正八幡宮に御いとま申させおわしまし、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき参らせて、「波の底にも都のさぶらふぞ」となぐさめ参らせて、ちひろの底にぞ沈み給ふ。

悲哉、無常の春の風、忽に花の御すがたをちらし、いたましきかな、分段のあらき波、玉蛛を沈めたてまつる。と描かれた、わずか八歳(満六歳)の幼き帝御入水の一節は、『平家物語』の中でもことのほか哀れを誘う場面である。

安徳帝の幼く小さいお身体は、海峡の潮に押し流されたのであろう。当時の史書をみても「玉葉」の四月四日の記に「旧主の御事分明せず」「醍醐雑事記」の四月十八日の記に「先帝行方知れず」、『吾妻鏡』の三月二十四日の記に「先帝ついに浮ばしめたまわず」などとあり、それは都の人々にとっても関心深く、また痛恨事であった。

そして、下関の地に伝わる伝承では、中島家の登場となってくる。海戦の翌日、伊崎一帯に住む中島組という漁師の一団が網を張って小門海峡で漁をしていたとき、その網に幼い帝のご遺体がかかり、これをお揚げして伊崎の地に安置したが、のち、現在の「阿弥陀寺御陵(赤間神宮)」の地に葬ったというのである。

こうした口碑に由来して、先帝の御命日を弔う赤間神宮の先帝祭上ろう参拝行事の際には、必ず中島家一族がその先頭に立って参拝するしきたりとなっているが、中島家伝承、必ずしも明快単純ではない。中島家と先帝祭のかかわりも、「赤間宮略誌」によれば、平家の武者中島四郎太夫正則なる者が合戦ののち潜伏し、漁業を営みながら先帝の霊を弔ったという落武者説となっている。

両説の真偽を立証すべき法もないが、口碑にいう伊崎の地には、ご遺体をお揚げした場所が「水揚場」、その時網を干したのが「網掛松」、仮安置所が「御浜殿」として言い伝えられて来たが、周辺も漁港としての岸壁整備で姿を変え、御浜殿も解体され、網掛松もすでに枯れて切り倒されてしまった。

義経伝説と同じく、安徳帝の場合にも生存説がある。第二次大戦後に話題をまいた硫黄島の長浜天皇や対馬の宗氏など、ともに安徳帝の子孫を名乗る一例。したがって、愛媛、対馬、硫黄島、そして近隣の豊田町西市など、己が地に御陵墓を主張するところもある。

そうした伝承が如何であれ、明治二十二年(一八八九)七月二十五日、勅裁によって正式に安徳天皇御陵墓と治定された「安徳天皇阿弥陀寺御陵」が下関に現存する。安徳帝の死は、都にとっても軽視できるものではなかった。幼帝入水三か月後の七月二日、後白河法皇が御追号と御廟堂の建立について提談されたことが知られる。

(防長歴史探訪1)


怨霊鎮慰の御影堂建立2
赤間神宮(下関市)

「玉葉」には、次のようにある。先帝の御事、外記勘申の如くんば、和漢の例、共に以て追尊の儀あり、殊に行はる無きは只淡路帝のみ、然れども彼は尚ほ追って改葬修善の事等有り、何んぞ況んや、先帝は逆賊の党類に伴ひ、官を避け城を出ずると雖も、幼稚の叡念を察するに、同心合謀に及ばざるが、優恕の条、専ら異儀なきか、成人奸謀の敵君も、猶お怨霊に謝をし、尊崇の儀有り、幼齢服親の先主は、須く非命を傷み、慈仁の礼を施すべきか、いわゆる追号修善は是れが師尚勘申の如く、長門国に仰せて一堂を建てられるを、尤も上計と為す。

これは後白河院に意見を求められての見解で、文中淡路帝とあるのは崇徳上皇のこと。幼い安徳帝に罪はなく、追福のため長門国に仰せつけて一堂を建てるべきだというのである。

しかしどうした理由でかいったん沙汰止みとなり、「安徳天皇」の尊号が奉られたのが二年後の文治三年(一一八七)四月二十三日。さらに長門国に安徳天皇御廟堂建立の決定をみたのが、それから四年後の建久二年(一一九一)十二月二十二日のことであり、後白河院発病の故の平癒祈願が要因。いわば怨霊鎮慰の御発願であった。

この長門国に建立された一堂こそ、阿弥陀寺の安徳天皇御影堂であった。室町初期と推定される阿弥陀寺古図や中世以降の記録などから御影堂を類推すると、檜皮葺入母屋造りの形で寝殿造りの様式をとっており、東向きに建てられていた。

内部は、上段内陣、下段外陣の二間からなり、上段の間正面の玉座に安徳天皇八歳の尊像を安置、それをとりまく左右の障子には平家一門一〇名の肖像が描かれている。そして下段の間には安徳天皇の御生誕から塩之浦入水に至る一代記の絵図が障子八枚に描かれ、御影堂あるいは天皇殿と呼ばれていたようである。

この御廟堂たる阿弥陀寺の寺伝によれば、貞観元年(八五九)、僧行教によって創建されたとあるが、伝来の古文書修復中に阿弥陀寺古図の紙背から、當寺開基文治二年三月二四日口口造畢源賴朝卿御願所如此給口者也という朱書が発見され、阿弥陀寺の開基を文治二年(一一八六)としていること、さらに「源頼朝卿御願所」と記してあることなど興味深い事実が明らかとなった。

ともあれ、明治維新後の阿弥陀寺廃寺に伴ってこの御影堂を「安徳天皇社」と呼称し、やがて明治八年(一八七五)十月七日、明治天皇の勅定により「赤間宮」を創建、官幣中社に列せられ、明治十三年(一八八〇)に新社殿を造営。

さらに昭和十五年(一九四〇)八月一日、「神宮」の称号宣下、官幣大社に昇格。昭和二十年(一九四五)七月二日の大空襲によって総ては灰燼に帰したが、戦後の二十四年(一九四九)の御本殿完成に始まって、以後、水天門、內外拝殿等次々に造営、今日の赤間神宮をみるに至った。

かつて御影堂を飾った障子絵の「安徳天皇絵」(県文化財) や災火の中から救い出された「長門本平家物語」(重要文化財) などの文化遺産も今日に伝えられている。歳月の流れは速い。昭和六十年(一九八五)には、寿永の昔を偲びつつ安徳天皇八百年祭がとり行なわれたのである。

(防長歴史探訪1)

(彦島のけしきより)


参考

赤間神宮(空襲被災前)( 参考)



国道9号線から見た赤間神宮( 参考)