防長歴史探訪1、七年目ごとの出会い 蓋井島 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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七年目ごとの出会い1
蓋井島(下関市)

巌流島が華麗な話題によって広く世に知られるのに対して、もっと身近な民俗的な歴史のうえで大切な意味を持つ島が、下関市の吉母地区に属する「蓋井島」である。

島は、吉母の沖合、吉見港から約一〇キロの海上響灘に浮かぶ二・四四平方キロの小島で、吉見港からの定期渡船で渡れば約三五分、現在、一日二往復(十二月から三月までの冬期は一往復)が運行されている。

蓋井島といういかにも意味ありげな名前、二井島、二生島、と書かれた例もみられるが、古くは、沖つ借島、とも呼ばれ、『万葉集』巻六の長門守巨曽倍対馬朝臣の歌、

長門なる沖つ借島奥まへてわが念ふ君は千歳にもがも

は、この蓋井島を詠んだものだという説が語られている。

そして「蓋井島由来書」によれば、

右蓋井島と申は凡五斗計程度入可申様の石の坪有之、是に水溜り居申之由、往古神功皇后三韓退治御帰朝之時、右石坪の水御取らせ被成中々能水とて殊外御褒美被成去より蓋覆ひ給ひし故蓋井島と申習候。

と、神功皇后にかかわる伝説を伝える。

またこの島は、乞月山と大山と呼ばれる二つの小山から成り立っているが、乞月山の名称も、神功皇后がここで月を見られたという伝説からきたものだという。

あくまでも伝説に過ぎまいが、島はある意味で閉鎖的な世界だけに、島の人々によって純粋に語り継がれて来たものであろう。

元文四年(一七三九)十一月九日、蓋井島の庄屋権兵による「地下上申」では「総家数拾九軒、総人数百拾壱人、牛弐拾匹」とあるこの島も、今は約四〇世帯、人口約一四○人となり、灯台や保健福祉館などもある半農半海の潤いある島である。

ところで、この鳥が注目されているのは、辰と戌の年、すなわち七年目ごとの旧暦十一月吉日に行なわれる「山ノ神」神事によってである。

この島の丘陵には、奥から海岸に向かって一の山・二の山・三の山・四の山と呼ばれる神聖な森が定められており、それぞれの山に、祭事を世話する世襲制の「当元」が置かれ、島の家はそのいずれかに属し、四つのグループを形成している。

また、これらの森には山の神に乞うて切り取った枯木や倒木を円錐状に組み合わせた「神籬」があり、その前には壺が掘りすえられているのである。

祭事はまず祭りの一〇日前頃から各森への道が手入れされ、その後、祭りの前約三日間をかけて神籬周辺の清掃や新しい神籬作りの作業が行なわれる。

そのうえで、神籬の前に朴で作った暦と著各七五本?が用意されて準備が終わる。

(防長歴史探訪1)


七年目ごとの出会い2
蓋井島(下関市)

祭りは四日間にわたって行なわれ、第一日の午後六時頃から一の山から四の山への順序で神迎えが行なわれる。

神迎えは、まず「随伴」と呼ばれる青年四人から六人くらいが御幣七五本を作る手伝いをし、祭壇には腰掛俵を置き七五本の幣を立てる。

さらに御食、神酒、洗米、月形,日形の大群と月の数だけの小旗を折敷に乗せ、海魚、大根、山芋、一夜作りの甘酒、檀?、橙あるいは林檎、蜜柑などの果物を供える。

以上の準備が完了すると注連縄が奥の間にはりめぐらされ、太夫によって神迎えが行なわれる。

第二日目には、山の神の留守の森に神にぎわいのための「造り物」が飾りつけられる。これは山の神を迎える準備で、各山がひそかに競って作り、当代の人気ものも登場、時代を反映して興味深い。

第三日には、昼に二の山の当元家で各山共催の「大贈』が行なわれる。大明は相管の意義を持つもので、終了に近づくや神官が座をはずして各山の神送り行事を当元家で行なう。 

行事は、太夫の帰還の祝に始まり、七五の浜の「まさご石」をまき、抜刀して祓い、祓串で破ったうえ、土間に下りて空白を搗く。山の神が滞留せぬよう払う行事である。

その後、当元は腰に脇差をさし、七五本の幣を抱え、太夫にしたがって各山順に送り届ける。

一行は、初め四の森に別れ、以降、一、二、三の森と別れて行き、別れる際に「七年目に会いましょう」と呼び合う。神の森につくと、幣を神に送り入れ、七五尋の注連縄で神籬の周囲を巻きしめる。

この時、七五の小餅を供えるが、他の山の氏子がしのび寄り、研の争奪が行なわれる。多く取った者が運がよいというのである。そして夕刻、三の山の当元家で賄が行なわれる。

第四日は、朝、四の山の当元家でなおらいが行なわれたあと、太夫が帰還し、昼から夕刻にかけて残りもので食事をするが、これを「人ばらい」と呼び、祭事は終了するのである。

この祭事には、山の神信仰と祖霊信仰が結びついた古来からのしきたりが純粋に継承されており、民俗学の面からも極めて貴重な意義をもつ。

しかも祭事に当たっての買物控、器具控、人員控などの詳細な記録が各山ごとに残されている点、その価値は高く、昭和三十四年(一九五九)三月二十八日に、蓋井島「山ノ神」神事が、記録作成の措置を講ずべきものとして、国の無形民俗文化財に指定され、さらに翌昭和三十五年(一九六〇)十月十一日、蓋井島「山の神」の森・四か所が国の重要有形民俗文化財に指定された。

また、島の北西部の丘陵・大山のヒゼンマユミ(ニシキギ科マユミ属・常緑樹)群落が、県有形文化財の天然記念物に指定されている。

ともあれ、七年目ごとの「山の神」神事には、島を離れて生活している人たちも皆帰って来てにぎわうが、それはまさに祖霊が結びつける血縁の絆とでもいうものであろうか。

村人たちに語り継がれている一の山が老夫で二の山が老婦、そしてこの山が娘で四の山がその夫?という伝承もまた、この島にふさわしい心情の美しさがある。

(防長歴史探訪1)




(彦島のけしきより)