防長歴史探訪2、奈良大仏を作った銅の産地 長登銅山跡 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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奈良大仏を作った銅の産地1
長登銅山跡(美東町)

昭和六十三年(一九八八)三月十九日、奈良東大寺の発掘調査で奈良の大仏鋳造にかかわった遺物が大量に出土し、大仏鋳造の実態が初めて明るみに出た。

しかも出土した青銅の化学分析により、大仏鋳造に使用された銅は「長門国長登銅山」であることが立証され、ビッグニュースとしてテレビや新聞紙上で大きく報道された。

いままでは大仏の鋳造法は「東大寺要録」などの古文書を手がかりにして推定の段階であったが、多量に出土した木簡などの遺物によって、いままで考えられていた現行の説がほぼ確定されるに至ったのである。

美東町の長登銅山は東大寺大仏の銅を産出したということで一躍全国民の知るところとなったが、それまでも江戸時代の初期から明治・大正・昭和と銅の採掘が連綿と行なわれて来たところとして名前はよく知られていた。

「防長風土注進案」に「当村は金山所にて往古奈良の都、大仏を鋳造せらるる時、大仏鋳立の地区として、当地の銅弐百余駄賃からしめる其の恩賞として奈良登の地名を賜り、其のころ天領にて御制札にも奈良銅山はありし由云い伝う」とあるように、伝説のようには伝えられていたのである。

美東町教育委員会の池田善文が昭和五十七年(一九八二)の「山口県地方史研究」に「古代長門国採銅所の予察」という題名で長登銅山のことをくわしく書いているが、この時点ではまだ大仏との直接のつながりはみつかっていなかった。

防長両国は古くから銅の産出が多いことは知られており、『延喜式』という昔の書物には長門・豊前・備中が三大産出国として著名であると書いてある。そしてその産出量も九世紀前半よりも大幅減少しているが、長門と豊前の両国が群を抜いて多い。

池田は昭和四十七年(一九七二)に長登字大明のからか(銅を製錬したときのかす。銅かす・金くそともいう)の堆積地から奈良時代の後半頃の須恵器片をみつけ、古代製錬跡の関連性を調べて来た。

長登にはおよそ一四か所の鉱山があり、それらの各山にはそれぞれ露天掘り跡や坑口、それに埋没した坑口が確認されている。根ヶ葉山には山頂北側の斜面に二つの露天掘り立坑跡とその下に連なる立坑や横坑があり、また至る所に鍾乳洞を利用した坑口があった。

ここでは灯明皿の代わりに使用したアワビやサザエの貝殻が、それを置いたであろうと思われる棚状のところでみつかり、当時の様子がかもしだされた。

滝の山・大切山というところでは一○か所の坑口が点在し、坑口は小規模のものがほぼ一直線に開口しており、坑口は鍾乳洞の様相を呈し複雑に入り組んで、総ての坑口に接続していた。また北平山は幅六〇メートル、長さ一九〇メートルの大露天掘りの立坑があったが、いまは排土で埋められつつある。

(防長歴史探訪2)


奈良大仏を作った銅の産地2
長登銅山跡(美東町)

長登の鉱山は銅だけでなく銀や鉄も含まれている山がある。銀は少なくて採算に合わなかったが、鉄は産出した山があり、昭和に入ってコバルトも産出したことが「美東町史」には出ている。

銅を出すこの辺りの鉱山では、緑青の製造が秘伝として伝えられて来た。『延喜式」交易難物にみえる長門国特有の緑青、『続日本紀』文武天皇の記録の中にある緑青は、後世に滝、下緑青として名を馳せた。

緑青は絵の具の材料として用いられ、ここで作られる長登緑青・滝ノ下緑青は緑の色が鮮やかできれいだと評判であった。緑青商が七軒もあって、上方や江戸まで売りに出ていたという。この辺りは江戸時代から明治にかけて最も盛況を呈し、長登千軒と呼ばれたほどで一つの村になっていた。

明治になり、近代工業が発達し銅の需要も増して来たので銅山の景気もよかった。特に明治三十七、八年(一九〇四、〇五)の日露戦争の頃には、銅山は美東町の産業の中心になっていた。昭和になって湧泉の湧出がひどくなって採掘が困難になり、また他に大きな銅山ができたりしたため、昭和二十六年(一九五一)、遂に閉山となった。

昭和六十三年、奈良の大仏鋳造と長登銅山との関係がはっきりしたのは、東大寺における大仏鋳造の実態を解明するための調査を行なったときのことであった。鋳造中の廃棄物が捨てられ大仏完成後土盛りされた土の中から多量の木簡が発見された。木簡とは薄い板に文字が墨で書いてある、いわば木の名札で公文書や荷札に使用された。

池田善文の報告によると、「白銅」や「上吹鋼」の用語、「右四電廿斤」とか「○○日佐佐婆万呂「不任」日○」など出勤簿と思われるものなどが記録されていた。奈良国立文化研究所で赤外線テレビで判読した結果、このうち半分が判読できたようだ。美東町教育委員会でも調査を行なったところ、ここ長登でも木簡が一〇〇点ほど発見された。

普通、木製品は土の中では腐ってしまうが、木簡が出たところは山の中の谷になっているところ、山の清水が多く水につかり空気にふれなかったからでは、といわれている。字が薄れて読みづらいものが多いが、昔の歴史を教えてくれる貴重なものである。中央とのつながりが、少しずつ解明できる手がかりがみつかったことは大へん喜ばしいことである。

(防長歴史探訪2)

(彦島のけしきより)